共産党から国民党へ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2017/09/13 23:07 UTC 版)
1917年(民国6年)、長沙青年会日学校に入学する。翌年卒業して、上海の大同学院に入学した。1919年(民国8年)、病気により退学し、フランスへ勤工倹学に赴いた。しかし、ここでもやはり病気により途中帰国している。 1920年(民国9年)8月、長沙嶽雲中学に入学する。1922年(民国11年)春、中国社会主義青年団に加入し、まもなく中国共産党に加入した。7月、中学を卒業し、上海に赴いて中共第2回全国代表大会に参加した。しかし翌年、いったん共産党を離党している。 1924年(民国13年)初に党籍が復活し、湖南に戻って共産党湖南省委員会書記兼訓練委員会秘書となる。ところが翌年、またしても離党した。同年秋に上海の私立大夏大学に入学し、今度は中国国民党に加入している。1926年(民国15年)12月、学業を中途で断念して武漢へ向かう。武漢国民政府に加入し、張治中の配下となった。9月、南京中央軍官学校中校政治教官となった。 1929年(民国18年)、軍事委員会武漢委員長行営政訓部秘書長となる。1932年(民国21年)10月、浙江省海寧県(現在の海寧市)県長に転じた。翌年11月、軍事委員会南昌委員長行営に異動する。1935年(民国24年)春、軍事委員会重慶委員長行営秘書となった。1937年(民国26年)初頭に、軍事委員会弁公庁少将秘書兼弁公庁秘書処少将処長などに就任している。
※この「共産党から国民党へ」の解説は、「羅君強」の解説の一部です。
「共産党から国民党へ」を含む「羅君強」の記事については、「羅君強」の概要を参照ください。
共産党から国民党へ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/03/12 14:35 UTC 版)
河南省立第一中学、武昌外国語専門学校を経て、1914年(民国3年)に国立北京大学予科に入学する。1918年(民国5年)、同大学法科に転じ、1922年(民国11年)に卒業した。卒業後は安徽省立法政専門学校の教員となり、1924年(民国13年)には上海商務印書館の編輯に転じた。 この年に、陶希聖は中国共産党に加入している。その後、私立上海大学教授、上海学生連合会顧問、『独立青年』主編などをつとめた。1927年(民国16年)初めに、中央軍校武漢分校中校政治教官、軍校政治部秘書、私立武昌中華大学法律教授、武漢国民政府中央教導師軍法処長等に任ぜられる。 同年7月、第一次国共合作の崩壊を受けて、陶は共産党を離党し、中国国民党に転じた。そして国民革命軍総政部秘書処少将処長兼宣伝処長、『党軍日報』社長に任ぜられている。翌年、南京中央軍校少将政治総教官兼訓練科長等に移った。1929年(民国18年)からは、私立上海復旦大学、国立曁南大学、私立中国公学、国立中央大学で教鞭をとる。1931年(民国20年)、国立北京大学教授に任命された。1929年から1935年にかけて、『食貨半月刊』の主編となっている。
※この「共産党から国民党へ」の解説は、「陶希聖」の解説の一部です。
「共産党から国民党へ」を含む「陶希聖」の記事については、「陶希聖」の概要を参照ください。
- 共産党から国民党へのページへのリンク