第一次国共合作
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結成当初の中国国民党と中国共産党は、国民革命に向けて共同歩調をとり、軍閥および北京政府に対抗する共同戦線を模索していた。1922年のコミンテルン極東民族大会における「植民地・半植民地における反帝国主義統一戦線の形成」という方針採択を受けて、1923年1月26日、孫文とソ連邦代表アドリフ・ヨッフェの共同声明である「孫文・ヨッフェ共同宣言」が上海で発表され、中国統一運動に対するソ連邦の支援を誓約し、国民党はソ連との連帯を鮮明にした。同宣言は、コミンテルン、中国国民党および中国共産党の連携の布告であった。ソ連邦の支援の元、1923年2月21日、広東で孫文は大元帥に就任した(第三次広東政府)。しかし、聯蘇容共への方針転換に対して、反共的な蔣介石や財閥系の党員らの反発も強く、孫文の死後、国民党は反共主義方針をとるようになる。他方、1923年6月、中国共産党は、第三回全国代表大会でコミンテルン代表マーリン (ヘンドリクス・スネーフリート)の指導で、国共合作が方針となった。 なお、国民党はコミンテルンの工作員ミハイル・ボロディンを1923年に迎え、孫文の軍事顧問・国民党最高顧問となった。またその前年の1922年には日本陸軍広東駐在武官佐々木到一を孫文の軍事顧問としている。佐々木は1924年に帰国するが、その後も孫文とは交遊を続けた。 1924年1月20日、軍閥および北京政府に対抗するべく、コミンテルンの仲介で第一次国共合作が成った。国民党は1924年1月20日、広東で開催した第一次全国代表大会で、綱領に「聯蘇容共」「扶助工農」の方針を明示し、第一次国共合作が成立した。中国共産党員が個人として国民党に加入する党内合作の形式を取った。黄埔軍官学校も設立され、赤軍にあたる国民革命軍の組織を開始した。 1925年、孫文が死去。孫文没後の国民党は混迷し、孫文の片腕だった廖仲愷は暗殺され、蔣介石と汪兆銘とは対立、最高顧問ボロディンは解雇されるなどした。以降、蔣介石が権力基盤を拡大する。デモに対して上海共同租界当局は鎮圧にあたって発砲、13人が死亡した五・三〇事件が発生、以後、大衆運動の矛先は上海共同租界の代表であるイギリスに向けられ、香港などでも反英運動が展開した
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第一次国共合作
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第一次国共合作は、軍閥および北京政府に対抗する共同戦線であった。国民党は1924年1月20日、広東で開催した第一次全国代表大会で、綱領に「連ソ」「容共」「扶助工農」の方針を明示し、第一次国共合作が成立した。陳独秀や毛沢東ら中国共産党員が個人として国民党に加入する党内合作の形式を取った。 1925年孫文が死去し、1926年に中山艦事件で蔣介石が共産党員を拘束するなどの軋轢があったが、その後国民革命軍総司令官になって実権を握った蔣介石が同年北伐を開始し、1927年に南京に国民政府が成立。1927年4月の上海クーデターによって国共合作は事実上崩壊。7月13日、中国共産党は対時局宣言を発し第一次国共合作の終了を宣言、国共内戦に突入した。
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