中山艦事件
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中山艦事件(ちゅうざんかんじけん、中国語: 中山舰事件)は、1926年3月20日中華民国広東省広州市で軍艦中山艦の回航をきっかけに、黄埔軍官学校長蔣介石が中国共産党員らの弾圧を開始した事件。「三二〇事件」「広州事変」とも。この事件をきっかけに中国国民党内での蔣介石の地位が急速に上昇し、また翌年4月の上海クーデターで第一次国共合作が破綻へ向かう端緒となったが、事件の中核の経緯は未だにはっきりしていない。
- 1 中山艦事件とは
- 2 中山艦事件の概要
- 3 脚注
中山艦事件
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/08 02:33 UTC 版)
1926年3月18日、共産党員であるとともに中山艦の艦長をつとめていた李之竜(中国語版)中将は蒋介石の名義とされる広州寄港の命を受けたが、蒋介石はこれを共産党及び国民党左派によるクーデターとみなし李中将を逮捕(のち死刑)、それに伴い周恩来ら黄埔軍官学校の共産党員を監禁、国民党左派の鄧演達を監視下に置いた。これはのちに中山艦事件と呼ばれる事となる。間もなく艦長は黄埔海軍学校校長の欧陽格(中国語版)へと交替された。 蒋介石による中国統一後も反蒋介石の紛争が続き、そのうちの一つ粤桂戦争で「中山」は広西軍に対する砲撃を行っている。陳済棠と「中山」の属する艦隊を率いる陳策の戦いでは「中山」は資金調達に従事したり、武器運搬船を拿捕するなどした。1932年8月に「中山」は南京国民政府の第一艦隊に編入され、長江配備となった。1932年の福建事変では「中山」も反乱鎮圧に従事した。
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