中国国民党での活動
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1921年(民国10年)に釈放されると、朱霽青はソビエト連邦へ視察に赴いた。翌年帰国し、ハルビンで『平民周報』を創刊している。その後、広州の孫文に合流し、1923年(民国12年)5月、大本営諮議に任ぜられた。1925年(民国14年)秋、奉天(瀋陽)で国民革命軍東北軍総司令部を秘密裏に組織し、郭松齢の反張作霖クーデターに呼応して蜂起したが、敗北して広州に逃れている。 1926年(民国15年)1月、中国国民党第2期中央執行委員候補に選出され、同年秋に北伐に加わって前線西路川湘黔点検委員に任ぜられた。満州事変(九・一八事変)勃発後に、遼熱抗日義勇軍を指揮し、さらに熱河省で東北抗日救国軍を成立させている。1933年(民国22年)5月には、察哈爾民衆抗日同盟軍に参加して総参議に任命された。しかし抗日同盟軍は同年に解散に追い込まれている。1935年(民国24年)から1937年(民国26年)まで、正太鉄路局局長を務めた。 1945年(民国34年)5月、国民党第6期中央執行委員に選出される。日中戦争(抗日戦争)終結後、軍事委員会委員長東北行営政治委員会委員に任ぜられた。翌年、制憲国民大会代表に選出されている。1950年(民国39年)、台湾に赴き、総統府国策顧問となった。 1955年(民国44年)2月10日、台北市にて病没。享年74(満72歳)。
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中国国民党での活動
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1923年(民国12年)に石瑛は帰国し、北京大学校長蔡元培の招聘に応じて同大学教授に任ぜられた。1924年(民国13年)1月、中国国民党の結成と共に第1期中央執行委員に選出された。同年、武漢師範大学校長に任命されたが、まもなく北京大学に復帰した。石瑛は孫文が推進する三大政策には反対であり、1925年(民国14年)11月には反共右派の西山会議派に加わり、更に上海で組織された同派国民党の中央執行委員に選ばれている。1926年(民国15年)からは北伐に参加し、兵工廠工程師に任ぜられ、翌年4月には上海龍華兵工廠廠長に起用された。 1928年(民国17年)に石瑛は湖北省に戻り、湖北省政府主席張知本の下で建設庁庁長に任命される。この時、張知本と財政庁庁長張難先と共に「湖北三傑」と称された。しかし1929年(民国18年)5月に張知本が新広西派の一員と見なされて蒋介石の圧力で辞任に追い込まれると、石もやはり下野している。その後、石は武漢大学工学院院長に転じていたが、1930年(民国19年)12月から浙江省政府建設庁庁長を1年間務め、その後の1931年(民国20年)12月には国民党第4期中央執行委員に選出されている(第5期も同様)。1932年(民国23年)3月、南京市市長に起用され南京建設委員会秘書長も兼任した。石の南京施政は3年に及んだが、1935年(民国24年)3月、日本から来訪した団体を飛行場まで出迎えるようにとの国民政府中央からの指示に抗議、市長を辞任している。 1935年(民国24年)7月、石瑛は考試院銓叙部部長に移り、1937年(民国26年)12月まで務めた。日中戦争(抗日戦争)勃発もあってその後湖北省に戻り、再び建設庁庁長に起用されたが、1938年(民国27年)秋に病気のため辞任している。翌1939年(民国28年)、湖北省臨時参議会議長に選出された。1943年(民国32年)12月4日、重慶にて病没。享年65。
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中国国民党での活動
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1928年(民国17年)に北伐が完了すると、李石曽は国立北平大学(北京大学の改称)と国立北平師範大学(現在の北京師範大学)で校長に任ぜられた。同年10月には故宮博物院参事となる。翌年、国民政府で建設委員会委員と大学委員会委員に任ぜられ、さらに国立北平研究院が成立すると、院長となった。1930年(民国19年)に中原大戦が勃発すると、李は張学良の下に赴いて蒋介石に味方するよう説得し、これに成功している。 1931年(民国20年)、李石曽は北平大学校長の職を退くが、同年に北平文化指導委員会副委員長、国民党中央政治会議委員に任命された。満州事変勃発後の国民政府各派による大同団結に際し、李は各派の斡旋に奔走している。1934年(民国23年)1月、建設委員会常務委員に昇進した。日中戦争が勃発すると、李石曽はそれまでに蓄積した対外人脈を生かして、欧米や香港を歴訪し、国民政府の正統性を高めるための外交に尽力している。
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中国国民党での活動
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「張継 (民国)」の記事における「中国国民党での活動」の解説
辛亥革命後、同盟会本部が南京に遷るに伴い、張継も帰国して交際部主任兼河北支部長に任命された。1913年(民国2年)、国民党として国会議員に当選し、参議院議長に選出される。同年の二次革命(第二革命)失敗後は、主に欧米で活動し、1920年(民国8年)以降、孫文の下で中国国民党組織のために奔走する。当初、張継は孫文の唱える聯ソ聯共に賛成であった。しかし張継が実際にソ連との交渉を担当すると、ソ連側が国民党への兵器供与等に消極的であったことなどから、不信感を抱くようになる。 1924年(民国13年)1月、中国国民党第1回全国代表大会が開催され、張継は第1期中央監察委員に選出された。しかし、この頃から早くも、張継は孫文の三大政策に反対する姿勢を公開している。同年8月、孫文に共産党との決別を迫ったが、かえって譴責を受けてしまい、張継は上海に引きこもることになった。孫文死後の1925年(民国14年)11月、謝持・鄒魯らの西山会議派に参加し、引き続き反共姿勢をとり続ける。翌年3月には、西山会議派による国民党第2回全国代表大会に参加し、中央執行委員に選出された。
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中国国民党での活動
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1924年(民国13年)1月、中国国民党が結成されると、林森は中央執行委員に選出された。しかし林は、孫文が主張する聯ソ、聯共、扶助農工の三大政策には反対の立場をとっている。翌年3月に孫が死去すると、林は鄒魯らの反共右派に与し、同年11月に北京の西山碧雲寺で開催された右派独自の国民党第1期4中全会(西山会議)に参加した。林は西山会議派において中央常務委員兼海外部長に任命されている。 1927年(民国16年)9月、西山会議派は反共路線へと転じた蔣介石・汪兆銘(汪精衛)に合流し、林森も南京の新たな国民政府に参加した。翌年10月、林は立法院副院長に任ぜられ、1929年(民国18年)3月の国民党第3回全国代表大会では、中央監察委員に選出されている。 1931年(民国20年)2月、立法院長胡漢民が蔣介石との対立の末に軟禁され、これに反発した汪兆銘らが対抗して5月に広州国民政府を樹立する。このとき、林は後任の立法院長に任命されたものの、すでに海外へ視察に赴いており、事務は代理の邵元沖が担当した。また、林は広州国民政府に名こそ列ねていたものの、積極的な反蔣活動にはかかわらず、同年10月に帰国すると、むしろ両派の調停に尽力している。
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中国国民党での活動
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1924年(民国13年)1月、中国国民党が結成され、第1次全国大会を開催した。このとき、廖仲愷が主導してきた準備に基づき、第1次国共合作も成立している。廖は引き続き大本営財政部長をつとめた他、党中央執行委員、党常務委員、党政治委員会委員、党工人部長、党農民部長、黄埔軍官学校党代表、軍需総監、大本営秘書長などの要職を兼任している。聯ソ・聯共路線の推進に加え、黄埔軍官学校の教育制度整備、労働団体・農民団体の組織にも尽力した。 1925年(民国14年)3月、孫文が死去すると、廖仲愷は引き続き容共左派の路線をとる。また、陳炯明討伐(東征)や反乱した楊希閔・劉震寰の討伐に際しても、前線に赴いて指揮をとった。しかし次第に、国民党内の主導権をめぐる争いから、反共右派との対立が先鋭化していく。 同年8月20日、廖仲愷は広州での国民党中央常務会議に出席し、党本部の正門を出たところを、突然刺客に襲撃、暗殺された。享年49(満48歳)。この暗殺が国民党右派の差し金によることは確実とされるが、首謀者が誰かについてははっきりとしていない。結局のところ、廖の政敵にして右派実力者である胡漢民が首謀者と疑われ、一時失脚に追い込まれてしまう。それでも、胡が本当に暗殺指示をなしたかどうかは不明である。
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中国国民党での活動
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1921年(民国10年)5月、非常大総統に就任した孫文の下で、伍廷芳は外交部長兼財政部長となり、伍朝枢も引き続き外交部次長をつとめた。10月、北京政府からワシントン会議代表に指名されたが、伍朝枢は実際に参加することを拒否した。1922年(民国11年)6月の陳炯明の反逆においても、伍廷芳親子は孫文を支持した。しかしまもなく、伍廷芳は病に倒れて死去した。 1923年(民国12年)3月、陳炯明を破った孫文が陸海軍大元帥本営を設立すると、伍朝枢は外交部長に就任し、孫文の対外宣言の英文原稿準備などを担当した。1924年(民国13年)1月、中国国民党第1回全国代表大会に出席する。2月に商民部長に就任し、8月には政治委員会秘書長となった。しかし伍朝枢自身は、孫文の三大政策には批判的・消極的な立場であった。 孫文死後の1925年(民国14年)7月、広州で成立した国民政府において、伍朝枢は国民政府委員、軍事委員会委員、司法委員会委員、広州市政庁委員長となる。1926年(民国15年)3月に中山艦事件が勃発し、蔣介石と汪兆銘(汪精衛)・胡漢民との対立が始まると、伍朝枢は後者を支持した。しかし同年5月、この政争に敗北して辞任し、上海に引きこもる。
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