反蒋活動
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/05/11 14:51 UTC 版)
武漢に帰還後、張発奎は15日に第2方面軍総指揮(3個軍統括)に任命された。そして、武漢の汪兆銘(汪精衛)を支持して、上海の蒋介石を討伐すべく、7月に出撃した。しかし7月15日には、汪が中国共産党との決別を会議で決定し(分共会議)、張もこれに同調した。ところが、8月1日に南昌に差し掛かったところで、軍内の共産党員が蜂起し、張の軍から離脱した(南昌起義)。 張発奎はその後、残軍を率いて広東へ戻り、李済深と合流した。ところが張は、李から広東の統治権を奪おうと図る。同年11月、李が上海へ向かった隙に、張は挙兵して一時広東を手中に収める。しかし、李は蒋介石の支援を受けて反撃に転じ、結局、張の方が下野に追い込まれてしまった。 その後、1929年(民国18年)3月に、蒋桂戦争が勃発すると、蒋介石から張発奎は再任用され、第1路追撃軍司令官兼第4師師長に任命された。しかし同年9月、汪兆銘らが上海で反蒋を唱えると、張もこれを支持し、再び蒋に反旗を翻した。1930年(民国19年)の中原大戦でも反蒋軍の一員として戦った。しかし最終的に敗北し、張は失脚してしまう。この後、しばらく外国視察に赴き、1935年(民国24年)に、再び蒋の配下として加わった。
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