紅軍掃討での返り咲き
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/06 07:52 UTC 版)
繆培南と薛岳は残軍を率いて北上し、第2次北伐に参加した。1928年(民国17年)4月、第4軍は第1集団軍の序列に組み入れられ、山東方面の攻略に活躍した。北伐終了後、第4軍は軍縮・再編に伴い第4師とされたが、繆がそのまま師長に残ったにもかかわらず、薛は蔣介石に忌避され、またしても失脚してしまう。薛は汪兆銘(汪精衛)らの反蔣活動に参加したが、蔣派の蔣光鼐・蔡廷鍇に大敗を喫した。その後、李宗仁ら新広西派の支援により軍勢は回復したものの、情勢は依然として芳しくなく、1932年(民国21年)に香港九龍に一時引退してしまう。 1933年(民国22年)10月、第5次共産党掃討作戦を開始しようとした蔣介石の招聘に応じて薛岳は南昌で帰参し、北路軍第3路軍副総指揮兼第7縦隊司令に任ぜられる。翌年1月、第1路軍代理総指揮となった。薛は紅軍を江西省内各地で撃破し、ついに10月には紅軍を瑞金から長征に追い立てることに成功した。その後も薛は紅軍を追撃し、1935年(民国24年)1月、貴陽綏靖公署主任兼第2路軍前敵総指揮に任ぜられている。結局、紅軍を殲滅することはできなかったが、薛の軍功は大きかった。1937年(民国26年)、滇黔綏靖公署主任兼貴州省政府主席に任ぜられた。
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