紅軍への対処
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1930年(民国19年)5月、蔣介石を支持する竜雲の命により、孫渡は盧漢配下の国民革命軍第98師第3旅旅長に任命され、反蔣介石派の拠点・広西省に向けて出撃した。しかし、省会(省都)南寧を攻略できず、新広西派の反撃も受けたため、雲南軍は翌年2月までに撤退している。 翌月、孫渡は竜雲により雲南軍参謀長に抜擢された。そして竜に雲南軍の軍縮・再編(「廃師改旅」)を進言し、これを実行する。しかしそのやり方は極めて拙速で、盧漢ら師長たちの権限剥奪に加え、削減した兵士たちへの給与・糧食を全く保障しないものであった。そのため盧は、不満を抱いた他の師長や兵士の声に応じる形で竜に対して兵変を起こし、孫を上海へ追放したのである。結局、盧はまもなく竜に降伏したため、孫は雲南に引き返して参謀長の地位に返り咲いた。 1934年(民国23年)12月、紅軍が長征により貴州省に至る。このとき、竜雲が蔣介石から剿匪第2路軍総司令に、孫渡が第3縦隊司令にそれぞれ任ぜられ、紅軍を迎撃することになった。しかし孫は、蔣が雲南軍を紅軍との戦いで消耗させようとしている意図を抱いていることを見抜き、戦闘は限定的にして、紅軍を省外へ出させることを優先するよう竜に進言する。竜もこれを受け入れ、孫を第2路軍総指揮部行営主任として、事実上対策を一任した。孫はその期待に応え、紅軍とは何度か交戦しながらも、大規模な衝突は回避し、雲南軍の損害を最小限にとどめることに成功している。
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