紅軍掃討、日中戦争前期
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1931年(民国20年)1月、韓徳勤は南昌衛戍司令を兼任し、江西省で第3次中国共産党討伐に従事したが、敗戦の末に一時は捕虜とされ、辛うじて脱走するなどした。しかしその後も共産党包囲に従事するため、江蘇省政府委員、同省保安処処長、贛粤閩湘鄂剿匪軍北路軍総司令部総参議を歴任している。1935年(民国24年)7月、長征に出た紅軍追撃のため貴州省政府委員に転じ、11月、軍事委員会委員長重慶行営弁公庁庁長を兼ねた。 1937年(民国26年)初、韓徳勤は顧祝同が主任を務める西安行営で弁公庁庁長に就任した。同年8月、日中戦争(抗日戦争)が勃発すると、顧と共に上海方面の前線に赴き、顧は第3戦区副司令長官に、韓は同部参謀長にそれぞれ転じている。11月、江蘇省政府の改組に伴い、顧は江蘇省政府主席、韓は省政府民政庁庁長にそれぞれ就任したが、韓が主席代理を務めた。翌1938年(民国27年)1月、第24集団軍副総司令兼第89軍軍長として江蘇省北部の防衛に当たる。
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