反蔣戦争の中で
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/03/12 14:46 UTC 版)
1927年(民国16年)11月、唐生智は寧漢戦争で李宗仁ら新広西派(新桂系)に敗北、下野した。それでも周斕は湖北省政府主席の地位に留任し、さらに国民革命軍第17軍軍長に任ぜられている。翌年2月、周は湖北省政府主席を退任、軍長専任となる。1929年(民国18年)4月、廃師改旅(軍縮措置)に伴い第17軍は新編第8師に改編される。同年の蔣桂戦争に際し、周は討逆軍第4路第1縦隊司令官に任ぜられ、新広西派討伐のため広西省へ進撃した。 しかし、周斕は蔣介石から唐生智との関係を猜疑されたため、戦後に兵権を剥奪されてしまう。そのため周は新広西派に転じ、同年12月、広西省で唐生明(唐生智の弟)が組織した第12軍に軍長として迎え入れられた。中原大戦で周率いる第12軍はいったん長沙を攻略するなどしたが、蔣を支持する湖南省政府主席何鍵の反撃に敗退、下野に追い込まれている。1932年(民国21年)、周は唐の配下として復帰し、1936年(民国25年)には陸軍少将銜を授与された。
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