反蔣介石運動への参加
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/01 03:17 UTC 版)
同年12月、国民政府の武漢遷都に伴い孫科も武漢へ移動、国民党中央執行委員会常務委員、航空処処長 などを歴任した。蔣介石が南京に国民政府を成立させ、また、上海を拠点とする西山会議派が存在するなどの分裂局面では、孫科は武漢を含めた3派合流のための交渉に奔走している。結局3派は1927年(民国16年)8月に合流した。翌9月、孫科は中華民国国民政府組織法と中国国民党訓政綱領の起草を行った。10月には、考試院副院長兼行政院鉄道部長兼交通大学校長に就任した。 1931年(民国20年)2月28日、胡漢民が蔣介石に軟禁されると、胡と交友があった孫科は蔣介石に反発する。そして、反蔣介石派と連合して同年5月、広州に中国国民党中央執監委員非常会議と国民政府を樹立した。まもなく、満州事変が発生したため、蔣介石と和解し、翌年元旦に孫は行政院長に任命された。しかし、蔣介石の支援を得られず、1カ月と持たず辞任した。
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