反蒋介石運動と日中戦争
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/11/21 08:55 UTC 版)
11月、蒋光鼐・蔡廷鍇らが福建事変を起こすと、翁照垣もこれに参加し、第19路軍第6軍長兼閩南民軍司令に任ぜられる。しかしまもなく、中華共和国は蒋介石側の討伐に崩壊してしまった。1936年(民国25年)5月、陳済棠らが両広事変を起こすと、翁はこれにも参加し、抗日救国軍新編第1師師長に任ぜられ、欽州・廉州一帯を守備した。7月には陳が敗北して下野、さらに9月、翁の部隊は北海事件を起こし、まもなく翁も下野を余儀なくされた。 しかし1937年(民国26年)に日中戦争(抗日戦争)が勃発すると、翁照垣は早くも前線指揮官として返り咲き、第1戦区前敵総指揮に任ぜられた。翌年夏、第7戦区東江遊撃総司令をつとめた。1940年(民国29年)、両陽守備司令に転じる。1945年(民国34年)8月の中国軍勝利とともに、軍人を引退した。 1946年(民国35年)5月、蔡廷鍇らが広州で組織した中国国民党民主促進会に翁照垣も加入する。1949年(民国38年)8月、いったんは桂粤辺区総司令に任ぜられたが、まもなく香港に去った。香港では目立った活動を行っていないが、1965年の孫文(孫中山)誕生百年記念式典では準備委員会の常務委員をつとめている。1972年10月8日、香港にて死去。享年81(満79歳)。
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