反董卓連合軍とは? わかりやすく解説

反董卓連合軍

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/01 07:37 UTC 版)

曹操」の記事における「反董卓連合軍」の解説

後漢末期の黄巾の乱勃発以前に、朝廷実権握り栄華ほしいままにしていた10人の宦官十常侍)を粛清するため、大将軍何進諸侯向けて上洛呼びかける檄文飛ばした曹操はこの宦官粛清計画非難している。曹操の父は大宦官曹騰養子であったため、曹操自身宦官利点危険性をよく理解していた。 大義名分何進檄文整えてくれている以上、都に上洛宦官排除して天子補佐することが権力を握るための最短となった中平6年189年8月27日首謀者何進段珪殺されるも、袁紹袁術宮殿攻めて宦官皆殺しにしたことで、朝廷内に栄華極めた宦官時代もついに終焉迎えた。しかし、大宦官曹騰の孫にあたる曹操にとっては、安定して出世することが出来たはずであった未来も、同時に失われたとも言える何進檄文いち早く反応した董卓洛陽上洛少帝弁廃して献帝協を立て朝廷牛耳った。董卓曹操仲間引き入れようとするが、董卓暴虐ぶりを見た曹操妻子連れず洛陽から脱出し故郷逃げ帰ったその間卞夫人らは袁術面倒を見られている)。 この帰郷の際、真偽不詳ながらも有名な逸話呂伯奢家族殺害である。呂伯奢曹操知人で、呂伯奢本人曹操立ち寄った際には留守であったという。王沈の『魏書』では、呂伯奢息子達による襲撃対す正当防衛、『世語』では、呂伯奢息子達の裏切りを心配した曹操一方的な虐殺、『異同雑語』では、食器用意する音を曹操殺害準備勘違いしたことによる事故的な過剰防衛としている。また『異同雑語』では、このとき曹操が「俺が他人に背こうとも、他人が俺に背くのはならぬと言ったとされる小説『三国志演義』では、この発言を「俺が天下人間背こうとも、天下人間が俺に背くことは許さない」とし、曹操から陳宮離れて行くことになった切っ掛けとしており、曹操悪役イメージ決定付ける逸話になっている。なお、『三国志』本文には、この逸話記述はない。 その後曹操私財投じて陳留郡己吾において挙兵した。『世語』では陳留郡孝廉である衛茲援助受けたとしている。とはいえ当初仲間夏侯惇夏侯淵曹洪曹仁曹純兄弟といった身内中心であり、その勢力小さなものにすぎなかった。 この後董卓諸侯軋轢進み東郡太守橋瑁によって詔勅偽造され各地諸侯連合呼びかける檄文が飛ぶに至る。 初平元年190年)、袁紹盟主として反董卓連合軍が成立すると、曹操もまた父の曹嵩援助を受け、親友である袁紹曹操自身袁紹親友だとは思っていなかったという)のもとに駆けつけた。しかし、董卓打倒目指し集結したはずの連合軍であったが、諸侯は自らの利益重視していたために積極的に攻める者はおらず逆に恐れ抱き董卓の軍を目前しながら毎日宴会催し、やがて諸侯互いに牽制始めることになる。 董卓洛陽焼き払い長安遷都したので、曹操盟主袁紹好機だと迫ったが、諸侯打算により、攻撃命令下されなかった。業を煮やした曹操鮑信張邈配下衛茲とともに董卓攻撃した。しかし曹操鮑信衛茲の軍は董卓配下徐栄との交戦により壊滅的な打撃を受け、衛茲戦死したその後曹操は軍の再編をするために揚州などで徴兵し、兵に反乱起こされたこともあったが鎮圧し司隸河内郡駐屯した。董卓長安撤退し孫堅洛陽制圧すると、反董卓連合軍は解散した

※この「反董卓連合軍」の解説は、「曹操」の解説の一部です。
「反董卓連合軍」を含む「曹操」の記事については、「曹操」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「反董卓連合軍」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「反董卓連合軍」の関連用語

反董卓連合軍のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



反董卓連合軍のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaの曹操 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS