徐栄
董卓に仕えて中郎将となり、同郡の公孫度を遼東太守に推挙する《公孫度伝》。 初平元年(一九〇)正月、関東で反董卓を掲げる義兵が起こると、董卓は徐栄と李蒙を各地に派遣して略奪を働かせていた。長沙太守孫堅は予州兵を率いて董卓を討とうとしたが、梁県で徐栄に遭遇した。徐栄は孫堅軍を撃破し、潁川太守李旻を生け捕りにした《後漢書董卓伝》。孫堅が包囲を脱出したとき、従う者はわずか数十騎であり、いつも着用していた赤い幘(頭巾)を部下の祖茂にかぶらせて、ようやく逃げ延びることができた《破虜伝》。 反董卓軍の曹操が、張邈の将衛茲を率いて滎陽の汴水に到達したところ、ここで徐栄に遭遇し、曹操軍の士卒は多くの死傷者を出した。曹操自身も流れ矢に当たり、乗馬も傷付いてしまったが、従弟曹洪が乗馬を差し出したので、夜陰に紛れて逃れることができた。曹操が少ない兵で一日中戦ったことを見て、徐栄は「酸棗を攻めることは容易でないぞ」と言い、兵を引いて帰還した《武帝紀》。 同三年四月、董卓が王允に誅殺されると、徐栄はそのまま王允に従った。董卓の旧将李傕・郭汜らが董卓の仇を報ずと称して長安に攻め上ると、王允は徐栄・胡軫を派遣して新豊で迎撃させた。しかし徐栄は戦死し、胡軫は李傕らに降伏した《後漢書董卓伝》。 【参照】衛茲 / 王允 / 郭汜 / 胡軫 / 公孫度 / 孫堅 / 祖茂 / 曹洪 / 曹操 / 張邈 / 董卓 / 李傕 / 李旻 / 李蒙 / 潁川郡 / 滎陽県 / 玄菟郡 / 酸棗県 / 新豊県 / 長安県 / 長沙郡 / 汴水 / 予州 / 梁県 / 遼東郡 / 太守 / 中郎将 / 幘 |
徐栄
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/08/11 18:40 UTC 版)
徐栄 | |
---|---|
後漢 中郎将 |
|
出生 | 生年不詳 幽州玄菟郡 |
死去 | 初平3年(192年) 新豊 |
拼音 | Xú Róng |
主君 | 董卓→王允 |
徐 栄(じょ えい、? - 192年)は、中国後漢時代末期の武将。幽州玄菟郡の人。
事跡
董卓に仕えて中郎将となった。冀州刺史を追われた友人の公孫度を遼東太守に推挙して、後に公孫度が自立するきっかけを作っている[1]。
初平元年(190年)に袁紹らの反董卓諸侯が挙兵すると、徐栄は李蒙と共に董卓の命で豫州へ出撃した。徐栄は滎陽県汴水で曹操・鮑信軍と遭遇したため、これを撃破し衛茲・鮑韜(鮑信の弟)を討ち取った。ただ、曹操軍が懸命に抗戦したのを見ると、徐栄は容易に滅ぼせないと見て、最終的な決着はつけずに軍を返している[2][3]。また初平2年(191年)、梁県で反董卓側の孫堅軍と遭遇するとこれを撃ち破り、潁川太守の李旻と張安を生け捕って、これを煮殺した[3]。
初平3年(192年)、董卓が王允に謀殺されると、徐栄はそのまま王允に従った。その後、長安に攻め上ってきた李傕・郭汜の軍を胡軫・楊定らと新豊で迎撃するが、胡軫・楊定の裏切りもあり敗れて戦死した[3]。
三国志演義
小説『三国志演義』では滎陽太守として登場するが、史実ではそもそも「滎陽太守」という地位自体が存在しない[4]。董卓の長安遷都の際に追撃してきた曹操軍を李儒とともに撃ち破り、曹操の肩に矢を射当てる武勇を見せたものの、夏侯惇に槍で突き殺されている。
脚注
- ^ 『三国志』魏書8公孫度伝
- ^ 『三国志』魏書1武帝紀
- ^ a b c 『後漢書』列伝62董卓伝
- ^ 滎陽は河南尹に属する1県でしかない。郡太守級であれば河南尹、滎陽県の長であれば、滎陽県令または滎陽県長でなければならない。
参考文献
徐栄(じょえい)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/28 04:45 UTC 版)
「まじかる無双天使 突き刺せ!! 呂布子ちゃん」の記事における「徐栄(じょえい)」の解説
李儒と行動を共にする堕天使。元はおそらく董卓の配下。華雄と似たような背格好をした少女。武器は大鎌を使用。
※この「徐栄(じょえい)」の解説は、「まじかる無双天使 突き刺せ!! 呂布子ちゃん」の解説の一部です。
「徐栄(じょえい)」を含む「まじかる無双天使 突き刺せ!! 呂布子ちゃん」の記事については、「まじかる無双天使 突き刺せ!! 呂布子ちゃん」の概要を参照ください。
- >> 「徐栄」を含む用語の索引
- 徐栄のページへのリンク