焦和とは? わかりやすく解説

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焦和Jiao He

ショウワ
セウワ

(?~191?)
青州刺史

初平年間一九〇~一九四)に青州刺史となり、住民保護考慮することなく群雄たちと(反董卓の)同盟結んで洛陽攻め上った。しかし袁紹曹操滎陽董卓部将徐栄)に敗北すると、黄巾賊勢力広げて諸城破壊した。焦和は鋭利な武器多数兵士保有していたが、間者放っていなかったので妄言惑わされ干戈を交えることなく敵の姿を見ただけで(青州に)逃走した臧洪伝》。

黄河に「陥氷丸」(氷を溶かす)を投げ込んで敵が渡河できないようにし、神々戦勝祈願し、いつも筮竹並べて巫術師側から離さず役所入ったときはを突くような清談したものの、役所出たときは命令系統混乱していて収まりがつかなかった。とうとう青州全土廃墟になってしまった《臧洪伝》。

まもなく焦和は亡くなり袁紹臧洪青州刺史任命したが、二年のあいだに賊軍駆逐された《臧洪伝》。

参照袁紹 / 徐栄 / 曹操 / 臧洪 / 董卓 / 青州 / 滎陽県 / 洛陽県 / 刺史 / 陥氷丸 / 筮(筮竹) / 黄巾賊 / 耳目偵邏間者) / 清談 / 巫祝巫術師


焦和

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/01/18 08:49 UTC 版)

焦 和(しょう わ[1]、生没年不詳)は、中国後漢末期の政治家。

生涯

初平年間に青州刺史となる。反董卓連合に参加し、洛陽へと攻め上った。その後、袁紹曹操が董卓軍に敗れると[2]黄巾賊の残党が跋扈する事態となる。焦和は優れた武器、多数の兵士を保有していたが、情報を集める斥候を配置しておらず、賊軍の噂や姿を確認しただけで逃走し、激しい戦闘に臨んだことはなかった。室内での清談においては勇ましい議論を展開したが、出陣すると混乱してどんな命令を下すべきか分からず、よろずの神に祈りを捧げ、筮竹や巫女にすがる有様だった。その結果として青州は荒れ果て、一帯は廃墟となった。

焦和が死去した後、袁紹は臧洪に青州を治めさせた。その後、2年間の内に、一帯に跋扈していた賊軍は討伐された。

出典

脚注

  1. ^ 日本語読みはちくま学芸文庫正史 三国志』(2巻、p.42)に基づく。
  2. ^ 『三国志』魏書 武帝紀によると、曹操が徐栄に敗れた。


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