焦和
初平年間(一九〇~一九四)に青州刺史となり、住民の保護を考慮することなく、群雄たちと(反董卓の)同盟を結んで洛陽に攻め上った。しかし袁紹・曹操が滎陽で董卓の部将(徐栄)に敗北すると、黄巾賊が勢力を広げて諸城を破壊した。焦和は鋭利な武器や多数の兵士を保有していたが、間者を放っていなかったので妄言に惑わされ、干戈を交えることなく敵の姿を見ただけで(青州に)逃走した《臧洪伝》。 黄河に「陥氷丸」(氷を溶かす薬)を投げ込んで敵が渡河できないようにし、神々に戦勝を祈願し、いつも筮竹を並べて巫術師を側から離さず、役所に入ったときは雲を突くような清談をしたものの、役所を出たときは命令系統は混乱していて収まりがつかなかった。とうとう青州は全土が廃墟になってしまった《臧洪伝》。 まもなく焦和は亡くなり、袁紹は臧洪を青州刺史に任命したが、二年のあいだに賊軍は駆逐された《臧洪伝》。 【参照】袁紹 / 徐栄 / 曹操 / 臧洪 / 董卓 / 青州 / 滎陽県 / 洛陽県 / 刺史 / 陥氷丸 / 蓍筮(筮竹) / 黄巾賊 / 耳目偵邏(間者) / 清談 / 巫祝(巫術師) |
焦和
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焦 和(しょう わ[1]、生没年不詳)は、中国後漢末期の政治家。
生涯
初平年間に青州刺史となる。反董卓連合に参加し、洛陽へと攻め上った。その後、袁紹と曹操が董卓軍に敗れると[2]、黄巾賊の残党が跋扈する事態となる。焦和は優れた武器、多数の兵士を保有していたが、情報を集める斥候を配置しておらず、賊軍の噂や姿を確認しただけで逃走し、激しい戦闘に臨んだことはなかった。室内での清談においては勇ましい議論を展開したが、出陣すると混乱してどんな命令を下すべきか分からず、よろずの神に祈りを捧げ、筮竹や巫女にすがる有様だった。その結果として青州は荒れ果て、一帯は廃墟となった。
焦和が死去した後、袁紹は臧洪に青州を治めさせた。その後、2年間の内に、一帯に跋扈していた賊軍は討伐された。
出典
脚注
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