王允の叛乱
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初平3年(192年)4月、董卓が呂布・王允等に暗殺されると、王允は董卓配下の軍の多くが涼州出身者であったため、軍の放逐を計画し、まず陝県の牛輔を李粛に攻撃させた。当然、李傕もその例外では無かった。結果、牛輔の反撃により李粛を撃破するも、牛輔自身が部下の攴胡赤児の裏切りに遭い、殺されてしまう。李傕は王允に赦免を請願したが拒否された上、長安では涼州人を皆殺しにするという噂が流れていたため、李傕らは身動きが取れずにいた。しかし賈詡の進言を受けて、郭汜らと共に10万人の兵をまとめ、長安への奇襲を決意した。同時に、指揮下の并州出身者を皆殺しにしている(王允と呂布が并州出身であったため)。 李傕の襲来を察知した王允は、他の董卓の旧将胡軫・徐栄・楊定らに李傕を迎撃するよう命じた。しかし結果は惨敗であった。徐栄は李傕に討たれ、胡軫・楊定は王允の傲慢な態度に加え、出陣前に嫌味を言われた事に怒り、新豊まで進軍したところで李傕に寝返った。 同6月、長安城は李傕に包囲されてから8日で陥落した。李傕は王允を八つ裂きにし、呂布一党を長安から叩き出した。 同9月、車騎将軍・開府・領司隷校尉・仮節・池陽侯となる。
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王允の叛乱
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初平3年(192年)4月、董卓が呂布・王允等に暗殺されると、王允は董卓配下の軍の多くが涼州出身者であったため、軍の放逐を計画し、まず陝県の牛輔を李粛に攻撃させた。当然、李傕もその例外では無かった。結果、牛輔の反撃により李粛を撃破するも、牛輔自身が部下の攴胡赤児の裏切りに遭い、殺されてしまう。李傕は王允に赦免を請願したが拒否された上、長安では涼州人を皆殺しにするという噂が流れていたため、李傕らは身動きが取れずにいた。しかし賈詡の進言を受けて、郭汜らと共に10万人の兵をまとめ、長安への奇襲を決意した。同時に、指揮下の并州出身者を皆殺しにしている(王允と呂布が并州出身であったため)。 李傕の襲来を察知した王允は、他の董卓の旧将胡軫・徐栄・楊定らに李傕を迎撃するよう命じた。しかし結果は惨敗であった。徐栄は李傕に討たれ、胡軫・楊定は王允の傲慢な態度に加え、出陣前に嫌味を言われた事に怒り、新豊まで進軍したところで李傕に寝返った。 同6月、長安城は李傕に包囲されてから8日で陥落した。李傕は王允を八つ裂きにし、呂布一党を長安から叩き出した。 同9月、車騎将軍・開府・領司隷校尉・仮節・池陽侯となる。
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