牛輔
董卓が朝廷で実権を握ると中郎将となり、中平六年(一八九)十月、白波賊十万余りの討伐にあたったが勝つことができなかった《後漢書献帝紀》。ちょうど山東で反董卓の義兵が起こったため、董卓は献帝を擁して長安に都を遷した。そのとき東中郎将董越が弘農郡澠池を、中郎将段煨が華陰を守り、牛輔も河東郡安邑に駐屯して反董卓軍を防いだ《後漢書董卓伝》。 太僕朱儁は董卓の西遷計画に反対していたが、このとき河南尹として洛陽に残って山東の諸将と通謀していた。董卓は校尉李傕・郭汜・張済を牛輔を預け、歩騎数万を率いて陝に進出させた。牛輔は中牟で朱儁を撃破、陳留・潁川の諸県で男女を殺したり誘拐したりして、その軍勢が通り過ぎたところでは命を永らえた者はなかった《後漢書朱儁伝・同董卓伝》。 初平三年(一九二)四月、董卓が長安において王允・呂布に殺された。呂布は李粛を陝に派遣して詔勅によって牛輔を討伐させたが、牛輔らは李粛と戦って弘農に敗走させたので、呂布は李粛を殺した《董卓伝》。そののち牛輔の軍中では訳もなく大騒ぎとなり、牛輔は陣中みなが謀叛をしていると思い、金銀財宝を持ち出して陝城から逃げ出した。日ごろ可愛がっていた攴胡の赤児ら五・六人だけを連れて黄河を北に渡ったが、赤児らは彼の財宝に目がくらみ、牛輔の首を斬って長安に送り届けた《董卓伝》。 【参照】王允 / 郭汜 / 朱儁 / 赤児 / 段煨 / 張済 / 董越 / 董卓 / 李傕 / 李粛 / 劉協(献帝) / 呂布 / 安邑県 / 潁川郡 / 華陰県 / 河東郡 / 弘農郡 / 弘農県 / 山東 / 陝県 / 中牟県 / 長安県 / 陳留郡 / 黽池県(澠池県) / 洛陽県 / 河南尹 / 校尉 / 太僕 / 中郎将 / 東中郎将 / 白波賊 / 攴胡 |
牛輔
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/04/03 04:54 UTC 版)
牛輔 | |
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後漢 中郎将 |
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出生 | 生年不詳 |
死去 | 初平3年(192年) |
拼音 | Niú Fŭ |
主君 | 董卓→独立勢力 |
牛 輔(ぎゅう ほ、? - 192年)は、中国後漢末期の武将。董卓の娘婿。
正史の事跡
董卓が中央で権力を掌握すると、その姻族ということで重用され、時期は不明だが中郎将に任じられている。中平六年(189年)10月、黄巾の郭泰らが西河の白波谷で反乱すると(いわゆる白波賊)、董卓は部将の牛輔を派遣して攻撃させたが鎮圧できなかった。
初平元年(190年)2月、董卓が献帝を擁して長安に遷都したとき、牛輔は陝に駐屯して東方に備えた。なお、この時に李傕・郭汜・張済らが牛輔の指揮下に加わっている。
初平3年(192年)正月、牛輔は李傕・郭汜・張済に命じ中牟で朱儁を破らせた。さらに、陳留郡や潁川郡の諸県を攻略させ、略奪・殺戮・誘拐を行わせた。
同年4月、董卓が王允らによって殺害された後、董卓の一族であるということで牛輔も討伐の対象とされた。それでも、王允が送り出した李粛率いる討伐軍を撃退するなど、激しく抗戦した。しかし、まもなく配下の部隊が恐慌状態になったため、牛輔は全軍が反乱を起こしたと思い込み、財宝を持って側近五、六人と城を脱け出し逃亡しようとした。
その時、部下の攴胡赤児が「城北にある馬で脱出できます」と言ったので、城壁から縄で吊り降ろさせていたが、途中で放り出されて腰を打ち動けなくなってしまう。攴胡赤児らは財宝を奪うと、牛輔の首を取って長安に戻った。
人物像
牛輔は極端に臆病な人柄で、常日頃から兵士召集の割符を握り締め、さらに刑罰用の斧と斬首台を側に置くことで、自分を励ましていた。また迷信深く、客に会うときはまず人相見に占わせて、反逆の気がないかを判断し、さらに筮竹で吉凶を占わせてから、やっと面会したと言われる。
物語中の牛輔
小説『三国志演義』でも登場するが、上記の人物像については触れていない。李粛を破った後に呂布の攻撃で大敗したため、李傕らを見捨て逃げ出そうとしたが、胡赤児(正史の攴胡赤児)に裏切られ殺されている。
配下
参考文献
- >> 「牛輔」を含む用語の索引
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