む‐ほん【謀反/謀×叛】
読み方:むほん
[名](スル)
1 時の為政者に反逆すること。国家・朝廷・君主にそむいて兵を挙げること。律の八虐の規定では国家に対する反逆をいい、「謀叛」の字を用い、謀反(むへん)、謀大逆(ぼうたいぎゃく)に次いで3番目の重罪とされる。
ぼう‐はん【謀×叛】
謀叛
謀叛(むほん)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/01/04 08:32 UTC 版)
※この「謀叛(むほん)」の解説は、「八虐」の解説の一部です。
「謀叛(むほん)」を含む「八虐」の記事については、「八虐」の概要を参照ください。
謀叛
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/12 02:05 UTC 版)
10月、義経の病が仮病であり、すでに行家と同心していると判断した頼朝は義経討伐を決め、家人・土佐坊昌俊を京へ送った。11日、義経は後白河法皇に、行家が頼朝に対して反乱を起こし、制止しようとしたができなかったがどうすべきかと奏聞し、法皇はさらに行家に制止を加えよと命じた。13日、義経は行家に制止を加えたが承知せず、自分も行家に同心したと述べ、その理由として頼朝による伊予国の国務妨害、没官領没収、刺客派遣の噂を挙げ、墨俣の辺で一戦を交え雌雄を決したいと言った。法皇は驚き、重ねて行家を制止せよと命じる。だが16日夜、義経はやはり行家に同心したと述べ、頼朝追討の宣旨を要求した。さらに勅許がなければ身の暇を濃い鎮西に下向すると述べ、天皇・法皇・公家をことごとく連行していくことをほのめかした。17日、土佐坊ら60余騎が京の義経邸を襲った(堀川夜討)が、自ら門戸を打って出て応戦する義経に行家が加わり、合戦は襲撃側の敗北に終わった。義経は、捕らえた昌俊からこの襲撃が頼朝の命であることを聞き出すと、これを梟首し行家と共に京で頼朝打倒の旗を挙げた。彼らは後白河法皇に再び奏上して、18日に頼朝追討の院宣を得たが、頼朝が父、義朝供養の法要を24日営み、家臣を集めたこともあり賛同する勢力は少なかった。京都周辺の武士達も義経らに与せず、逆に敵対する者も出てきた。さらに後、法皇が今度は義経追討の院宣を出したことから一層窮地に陥った。 29日に頼朝が軍を率いて義経追討に向かうと、義経は西国で体制を立て直すため九州行きを図った。11月1日に頼朝が駿河国黄瀬川に達すると、3日に義経らは西国九州の緒方氏を頼り、300騎を率いて京を落ちた。途中、摂津源氏の多田行綱らの襲撃を受け、これを撃退している(河尻の戦い)。6日に一行は摂津国大物浦(兵庫県尼崎市)から船団を組んで九州へ船出しようとしたが、途中暴風のために難破し、主従散り散りとなって摂津に押し戻されてしまった。これにより義経の九州落ちは不可能となった。7日には、検非違使伊予守従五位下兼行左衛門少尉を解任される。一方、25日に義経と行家を捕らえよとの院宣が諸国に下された。12月、さらに頼朝は、頼朝追討の宣旨作成者・親義経派の公家を解官させ、義経らの追捕のためとして、「守護・地頭の設置」を認めさせた(文治の勅許)。 義経は郎党や愛妾の白拍子・静御前を連れて吉野に身を隠したが、ここでも追討を受けて静御前が捕らえられた。逃れた義経は反鎌倉の貴族・寺社勢力に匿われ京都周辺に潜伏するが、翌年の文治2年(1186年)5月に和泉国で叔父・行家が鎌倉方に討ち取られ、同年6月には、源有綱も大和国で討ち取られた。また各地に潜伏していた義経の郎党達(佐藤忠信、伊勢義盛等)も次々と発見され殺害された。さらに義経に娘を嫁がせていた河越重頼とその嫡男重房も、頼朝の命令で所領没収の後に殺害された。そうした中、諱を義経から義行に改名させられ、さらに義顕と改名させられた。何れも源頼朝の意向により、朝廷側からの沙汰であり、当の義経本人がこのことを認知していたか否かは不明である。そして院や貴族が義経を逃がしていることを疑う頼朝は、同年11月に「京都側が義経に味方するならば大軍を送る」と恫喝している。京都に居られなくなった義経は、藤原秀衡を頼って奥州へ赴く。『吾妻鏡』文治3年(1187年)2月10日の記録によると、義経は追捕の網をかいくぐり、伊勢・美濃を経て奥州へ向かい、正妻と子らを伴って平泉に身を寄せた。一行は山伏と稚児の姿に身をやつしていたという。一方、『玉葉』で義経の奥州逃亡が確認されるのは文治4年(1188年)正月9日条で、それによると実際の到着は文治3年の9月から10月ごろだったという。
※この「謀叛」の解説は、「源義経」の解説の一部です。
「謀叛」を含む「源義経」の記事については、「源義経」の概要を参照ください。
謀叛
「謀叛」の例文・使い方・用例・文例
品詞の分類
- >> 「謀叛」を含む用語の索引
- 謀叛のページへのリンク