鮑信とは? わかりやすく解説

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鮑信Bao Xin

ホウシン
ハウシン

(?~192
漢済北相・行破将軍

泰山郡平陽の人。司隷校尉鮑宣後裔の子邵・鮑勛の父、鮑韜の兄《鮑勛伝》。

鮑信は若くして節義重んじ寛容にして人を愛し沈勇豪毅にして知謀持っていた。中平元年一八四)に黄巾賊蜂起すると、大将軍何進は彼を招いて騎都尉とし、東方帰郷させて募兵させた。鮑信は千人余り手に入れたが、そのなかには于禁もいた。鮑信は成皋まで引き返したところで何進殺されたと知ったが、そのまま京師(みやこ)に帰還した鮑勛伝》。

そのころ董卓軍勢到着していて都を脅かしていたため、鮑信は中軍校尉袁紹告げた。「董卓強力な軍勢擁して異心抱いております。いま速やかに計画を下さなければ制約を受けることになりますぞ。やってきたばかり疲労しておりますから、彼を襲撃すれば生け捕りにすることもできましょう」。袁紹董卓恐れていたので手を下すことができず、鮑信は(官職棄てて手勢率いて郷里帰った。そこで軍勢をかき集め兵士万人騎馬七百匹、輜重車三千乗を手に入れた董卓鮑勛伝》。

初平元年一九〇)正月曹操とともに打倒董卓義兵挙げた武帝紀》。曹操勃海太守袁紹とともに、鮑信を行破将軍、その弟鮑韜を裨将軍任命するよう上表した。当時袁紹軍勢が最も多く豪傑たちの多く彼に付き従ったが、鮑信だけは曹操に「そもそも計略不世出能力英雄たちを総攬され、混乱収めて正道に立ち返らせられるのは君(あなた)です。そうした人物なければ強力であっても必ず倒れるものです。君は天帝お導き得たでしょうと言い自分から深く結びついた。曹操もまた親しくして異才であると評価した鮑勛伝》。

曹操は鮑信・鮑韜衛茲らを率いて滎陽進出したが、汴董卓の将徐栄敗北喫し曹操・鮑信は負傷し鮑韜衛茲戦死した武帝紀・鮑勛衛臻伝》。このとき曹洪乗馬差し出したので曹操九死に一生得たが《曹洪伝》、徐栄曹操わずかな軍勢一日中奮戦したのを見て軍勢引き返している《武帝紀》。

翌二年七月袁紹韓馥から冀州牧の地位奪取したとき、鮑信は曹操告げた。「いま袁紹盟主となりながら、権力をもって利益独占しておりますが、これこそ董卓がまた一人いるようなものです。彼を抑え付けようにも(我らの)力では制御することができませんから、まずは黄河南岸経略し、彼の身に変事が起こることを待ちましょう」。曹操はそれを善いことだと思った曹操東郡太守になると、上表して鮑信を済北国の相とした。《鮑勛伝》。

三年四月黄巾賊大軍兗州闖入して、任城国相鄭遂を殺害し、さらに東平転進した兗州刺史劉岱が彼らと抗戦しようとしたので、鮑信はそれを引き止めた。「いま賊軍百万人もいて、百姓どもは恐れおののき士卒には戦意がなく、敵対することはできません。賊軍観察する輜重車がなく、略奪によって軍資当ててます。いまは軍勢の力を蓄えて固守するのが最上奴らはきっと離散する違いありません。そのあと精鋭選んで奴ら攻撃すれば破ることができましょう」。劉岱聞き入れず、とうとう敗死してしまった《武帝紀・鮑勛伝》。

曹操の将陳宮曹操兗州牧に推戴すべしと別駕従事・治中従事説得しはじめた。鮑信らもそれに賛同し、州吏潜らとともに東郡へ赴き、曹操出迎えて兗州牧に擁立した曹操そのまま進軍し寿張東郊黄巾賊攻撃しよう思い、まず鮑信らを引き連れて敵情視察赴いた後続歩兵軍がまだ到着しないうちに賊軍遭遇し、鮑信は曹操を逃がすため奮戦したすえ戦死した曹操やっとの思いで賊軍打ち破ることができたが、賞金をかけて鮑信の亡骸探して見付からなかったので、人々は木を削って鮑信の姿を作り、それを祭って哭礼を行った四十一歳であった武帝紀・鮑勛伝》。

建安十七年(二一二)、曹操は鮑信の功績さかのぼって論功行賞し、上表して子邵を新都亭侯、その弟鮑勛丞相掾とした《鮑勛伝》。鮑信の家は代々儒学修める家柄で、我が身倹約努めていたのに将兵手厚く養ったため、財産はすっかり無くなってしまった。それゆえ士卒たちは彼になついていた《鮑勛伝》。

参照于禁 / 衛茲 / 袁紹 / 何進 / 韓馥 / 徐栄 / 曹洪 / 曹操 / 陳宮 / 鄭遂 / 董卓 / 潜 / 鮑勛 / 邵 / 鮑宣 / 丹 / 鮑韜 / 劉岱 / 兗州 / 冀州 / 滎陽県 / 黄河 / 寿張県 / 任城国 / 新都亭 / 成皋県 / 済北国 / 泰山郡 / 東郡 / 東平国 / 平陽県 / 汴 / 勃海郡 / 騎都尉 / 刺史 / 相 / 丞相掾 / 司隷校尉 / 太守 / 大将軍 / 治中従事 / 中軍校尉 / 亭侯 / 破将軍 / 裨将軍 / 別駕従事 / 牧 / 行 / 黄巾賊


鮑信

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/03/29 05:46 UTC 版)

鮑信
後漢
済北相
出生 元嘉2年(152年
兗州泰山郡東平陽県
死去 初平3年(192年
青州
拼音 Bào Xìn
主君 霊帝少帝弁献帝
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鮑 信(ほう しん、元嘉2年(152年) - 初平3年(192年))は、中国後漢末期の武将。兗州泰山郡東平陽県の人であるが祖籍は并州上党郡屯留県である。前漢司隷校尉鮑宣の八世の孫。父は鮑丹。弟は鮑韜。子は鮑卲・鮑勛。『後漢書』や『三国志』などにその名が散見される。

生涯

寛大で節義を弁え、智謀に秀でていたといわれている。代々儒学で名を成した家系の出身で、常に質素な生活をしていたこともあったため、多くの人から慕われていた(『後漢書』袁紹伝の引く『魏書』)。

霊帝の時代、何進の招聘を受け騎都尉となった。十常侍と対決することを決意した何進の命令で、同郷の王匡と共に故郷に戻り兵を募ったという(『後漢書』)。しかし成皋の地に辿り着いたところで、何進が暗殺されたことを知った(鮑勛伝の引く『魏書』)。

鮑信が兵を連れて戻ると、何進と十常侍が共に滅んでおり、董卓が軍勢を率いて都に入っていた。鮑信が董卓の専横を予見し、袁紹に董卓を襲撃するよう進言したが、袁紹は実行しなかった。そこで鮑信は郷里に帰り、二万の歩兵・七百の騎兵・輜重五千余りを集めた(鮑勛伝の引く『魏書』董卓伝)。董卓討伐の同盟(反董卓連合軍)が結成された時、鮑信は済北国の相となっていたが(『後漢書』・武帝紀[1])、討伐軍に参加し、袁紹を盟主として関東の諸侯と盟約を結んだ(『後漢書』・武帝紀)。鮑信は袁紹と曹操から行破虜将軍に推挙・上表された(鮑勛伝の引く『魏書』)。

鮑信は劉岱張邈張超袁遺橋瑁と共に酸棗に駐屯した。酒宴ばかりで戦をしようとしない諸侯に対し、曹操は戦をするよう訴えた(武帝紀)。鮑信は曹操の求めに応じ共に戦ったが、董卓の派遣した徐栄に大敗、弟が戦死し自身も重傷を負った(鮑勛伝の引く『魏書』)。まもなく兵糧が尽きて酸棗の軍勢が解散したため、鮑信も任地に帰還した(「後漢書』)。

袁紹が冀州を取り強勢となると、鮑信は袁紹が第二の董卓となりそうであるから警戒すべきとして、曹操に対し黄河の南を平定し、力を蓄え時を待つべきであると進言した(鮑勛伝の引く『魏書』)。曹操は東郡太守になると、再び鮑信を済北国の相に推挙した(鮑勛伝の引く『魏書』)。

青州黄巾賊が兗州に侵入すると、直ちに討伐しようとする劉岱に自重を勧めたが、劉岱はこれを聞かずに黄巾賊と戦い戦死した。陳宮は曹操を兗州牧に推戴するため、兗州の別駕従事や治中従事を説得した。鮑信らはその意見に賛同し、曹操を兗州牧に迎えた。

初平3年(192年)、曹操と共に青州黄巾軍の残党討伐に向かった。しかし作戦のため曹操と共に下見に出ていた最中、敵軍の不意打ちに遭ってしまった。軍勢が到着していなかったため白兵戦となったが、鮑信は必死に戦い曹操を救出した。このため曹操が敵の包囲を破って脱出できたが、鮑信は戦死してしまった。享年41。曹操は鮑信の死を悲しみ、遺体を捜させたが見つけられなかった。

将兵に施しを良くしたため、死後に財産も残らなかった。

子孫

鮑卲は父の風格を受け継ぐ人物で、曹操から騎都尉に任命され、使持節とされた。鮑卲が没すると、その子の鮑融が跡を継いだ。

三国志演義

小説『三国志演義』では字が允誠(嘉靖本)となっている。反董卓連合軍の関東諸侯の中でも、特に無能な人物として描かれている。先鋒を命ぜられた孫堅を出し抜くため、弟の鮑忠(架空の人物)と共に抜け駆けをするが、華雄に大敗した上で弟を華雄に討ち取られてしまう。最期は正史と同様に青州黄巾賊との戦いで戦死するが、曹操を助けるためではなく、功績を焦って突出したため戦死したという扱いになっている。

脚注

  1. ^ 鮑勛伝の引く『魏書』においては、袁紹が冀州を手中にした後に、曹操に推挙されたことになっている。

関連項目


鮑信(ほう しん)

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蒼天航路」の記事における「鮑信(ほう しん)」の解説

兗州済北国相。張邈とともに青州黄巾党対抗するため、曹操兗州の牧に迎える。曹操という人物理解できず、彼の行動疑問呈しつつも、英雄認めわからぬままに信じ彼に従う。黄巾党との戦いで于禁乱世勇将となることを託し戦死

※この「鮑信(ほう しん)」の解説は、「蒼天航路」の解説の一部です。
「鮑信(ほう しん)」を含む「蒼天航路」の記事については、「蒼天航路」の概要を参照ください。

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