陳宮
(?~198) |
||
陳宮は剛直壮烈、若くして海内の知名の士はみな交友を結んだ。天下が混乱すると太祖(曹操)に随身した《呂布伝》。 陳宮は東郡の人であるから、曹操が東郡太守になったとき配下に加わったのだろう。 初平三年(一九二)、黄巾賊の闖入により兗州刺史劉岱が戦死すると、陳宮は太祖に告げた。「州にはいま君主なく、そのうえ王命は断絶しております。陳宮は州内を説得したいと存じます。明府(知事どの)はすみやかに赴いてこれを牧(統治)しなされ。それを元手に天下を収めること、これぞ霸王の業であります」。陳宮が別駕・治中を「いま天下は分裂し、州には君主なき有様。曹東郡(曹操)は命世の才をお持ちです。州牧に迎え入れれば、きっと民衆を安心させることができましょう」と説得すると、済北の相鮑信らもまたその通りだと言った《武帝紀》。 興平元年(一九四)夏、太祖は再び陶謙を征伐した。陳留太守張邈の弟張超は、太祖の将陳宮、従事中郎許汜・王楷と共謀して太祖に叛逆した。陳宮は張邈を説得した。「いま豪傑が並び立って天下は崩壊しており、貴君は十万の軍勢を擁して四戦の土地に臨まれ、剣を押さえて振り返るだけでも諸人の総帥となるには充分、それなのに他人の制御を受けておられるとは卑屈なことではありますまいか!いま州兵は東征して本拠地はがら空き、呂布は勇者であり、遮る者もなき戦いぶりです。もし彼を一時的に迎え入れて兗州を共同統治し、天下の形勢を見つつ時勢の変化を待たれるならば、それもまた合従連衡の機会かと存じまする」《呂布伝・後漢書同伝》。 太祖はもともと陳宮に軍勢を率いて東郡に駐留させていたが、張邈は張超・陳宮とともにその軍勢を率いて東方へ向かい、呂布を兗州牧に迎え入れて濮陽を拠点とした。郡県はみな呼応し、太祖のために固守したのは鄄城・東阿・范のみであった《呂布伝》。陳宮はみずから軍勢を率いて東阿を攻略し、汎嶷には范城を攻略させたが、汎嶷は范の県令靳允に謀殺され、陳宮は倉亭津が程昱に遮断されていたため渡ることができなかった《程昱伝》。 東阿を攻めるため倉亭津を渡ろうとしたというのだから、陳宮は黄河北岸に駐屯していたのである。郷里の東武陽であろうか。 太祖は徐州から引き返すと、呂布の将李封・薛蘭を撃破した。ここで陶謙の死を聞き、先に徐州を平定してから呂布と戦おうと思ったが、荀彧が「むかし高祖は関中、光武は河内を拠点にいたしましたが、兗州は将軍にとっての関中・河内です。軍勢を分けて東方にいる陳宮を攻撃し、その隙に西方の食糧を確保なさいませ。一挙にして呂布を打ち破ることもできましょうぞ」と諫めたので、(徐州攻略を)取り止めた《荀彧伝》。 『武帝紀』に興平二年夏、李封・薛蘭を撃破したとある。陶謙が死んだのは興平元年だが、李封・薛蘭を撃破したあとで訃報を受け取ったのかもしれない。 二年夏、呂布は東緡から陳宮と合流し、一万人余りを率いて太祖を攻撃した。太祖の軍勢は少なかったので、伏兵を設け、奇兵を放って攻撃し、彼らを大破した《武帝紀》。太祖が定陶を陥落させたので、呂布は東方へ行き(徐州の)劉備のもとに出奔した《武帝紀》。 建安元年(一九六)六月、夜中に郝萌が反乱を起こした。郝萌の将曹性は郝萌を見限り、高順とともに郝萌を斬った。呂布が質問すると、曹性は「郝萌は袁術と通謀しておりました。陳宮が共謀者です」と供述した。陳宮は座中にあって赤面し、側にいた人はみなそれに気付いたが、呂布は陳宮が大将であったため不問に付した《呂布伝》。 三年九月、公は呂布を東征した。十月、彭城を屠り、その相の侯諧を捕らえた《武帝紀》。陳宮は「迎撃すべきです。逸をもって労を撃つのですから、勝てないはずがありません」と主張したが、呂布は「奴らが来るのを待って泗水に追い詰めるに越したことはないさ」と聞き入れなかった《呂布伝》。 太祖が城下に到着して呂布に手紙を送り、利害を説得すると、呂布は白門楼の上から「貴卿らは苦しめないでくれたまえ。我は明公(との)に自首するのだから」と(太祖の)兵士たちに言った。陳宮は自分の罪の深さを思い、呂布の降服を阻止した。「逆賊曹操のどこが明公なんだ!今さら降服しても、卵に石を投げ付けるようなもので、安全でいられるわけがない!」《呂布伝》 陳宮は言った。「曹公は遠くから来ておりますので、状況からいって長くは持ちません。将軍が歩騎を率いて城外で気勢を挙げ、陳宮が残りの軍勢を率いて城内を固めることにして、もし(敵が)将軍に向かえば陳宮が背後を攻撃し、もし城郭を攻めれば将軍が城外から救援する。(敵軍は)十日もせぬうちに食糧は尽き果てるでしょう。それを攻撃すれば打ち破ることができます」。呂布もその通りだと思ったが、彼の妻が「公台は曹操から赤子のように待遇されたのに、それを捨てて来たのですよ。かねてより高順とも仲が悪く、もし変事が起こったなら、妾(わたし)は将軍の妻ではいられません!」と言うので、呂布は取り止めた《呂布伝》。 太祖は攻撃しても陥落させられず、何度も続く戦いで士卒が疲労していたので、引き揚げようとした。荀攸と郭嘉が「呂布は勇猛ですが無謀で、三度戦ってみな敗北し、鋭気は衰えております。陳宮は智慧者ですが(計略をまとめるのが)遅く、陳宮の計略が定まらぬうちに急襲をかければ、呂布を攻略することができます」と説得したので、沂水・泗水を引いて城を水攻めにした《荀攸伝》。 それから一ヶ月余りすると、君臣の心はばらばらになり、呂布の将侯成・宋憲・魏続らは陳宮を縛りあげ、その軍勢を連れて降服した。呂布も白門楼から下りて降服した《武帝紀・呂布伝》。 陳宮が兵士に連れられてくると、曹操は平生のごとく語りかけた。「公台よ、貴卿は日ごろ智略が有り余っているのを自負しておったが、今でもそう思うかね?」、陳宮は呂布を指差して「この者が陳宮の言葉を聞かなかったからここまで落ちぶれたのだ。聞き入れられておれば絶対に捕虜になることはなかった」。《呂布伝》 太祖は笑って「今日の事態はどう説明するのか?」、陳宮「臣として不忠、子として不孝、死ぬのが我が務めだ」、太祖「貴卿はそれでよかろうが、貴卿の老母はどうしよう?」、陳宮「孝をもって天下を治める者は他人の親を傷付けぬものと聞いております。老母の生死は明公次第です」、太祖「貴卿の妻子はどうだ?」、陳宮「天下に仁政を施す者は他人の祭祀を絶やさぬものと聞いております。妻子の生死はやはり明公次第です」《呂布伝》。 太祖が再び口を開こうとしたとき、陳宮は「処刑して軍法を明らかにしてくだされ」と(刑場へ)走り出て、制止することもできなかった。太祖は泣きながら見送ったが、陳宮が振り返ることはなかった。太祖は彼の家族を昔以上に手厚く待遇し、その母を死ぬまで養い、女を縁付けてやった《呂布伝》。 【参照】袁術 / 王楷 / 郭嘉 / 郝萌 / 魏続 / 許汜 / 靳允 / 侯諧 / 侯成 / 高順 / 荀彧 / 荀攸 / 薛蘭 / 宋憲 / 曹性 / 曹操(太祖) / 張超 / 張邈 / 程昱 / 陶謙 / 汎嶷 / 鮑信 / 李封 / 劉秀(光武) / 劉岱 / 劉備 / 劉邦(高祖) / 呂布 / 兗州 / 河内郡 / 関中 / 沂水 / 鄄城県 / 泗水 / 徐州 / 済北国 / 倉亭津 / 陳留郡 / 定陶県 / 東郡 / 東阿県 / 東緡県 / 東武陽県(武陽県) / 白門楼 / 范県 / 彭城国 / 濮陽県 / 県令 / 刺史 / 従事中郎 / 相 / 太守 / 治中従事 / 別駕従事 / 牧 / 黄巾賊 |
陳宮
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/04/11 07:44 UTC 版)
陳 宮(ちん きゅう)とは、後漢末期の人物。
陳宮 | |
---|---|
![]()
清朝時代の図像
|
|
後漢 大将 |
|
出生 | 生年不詳 兗州東郡東武陽県 |
死去 | 建安3年12月24日癸酉(199年2月7日) 徐州下邳郡 |
拼音 | Chén Gōng |
字 | 公台(こうだい) |
主君 | 曹操 → 呂布 |
陳 宮(ちん きゅう、生年不詳 - 建安3年12月24日癸酉(199年2月7日[1]))は、中国後漢時代末期の武将。字は公台。兗州東郡東武陽県(現在の山東省聊城市莘県)の人。
生涯
勇敢で信念を曲げない人柄であり、地元の顔役として若いころから天下の英雄や高名な学者たちと交友を結んで自分を高めた[2][3]。
天下が動乱の時代に入ると、まず曹操に仕えた。初平3年(192年)、兗州刺史の劉岱が黄巾軍に敗れて戦死すると、「覇王の業」のために兗州を傘下に治めるよう曹操に進言した。曹操の同意を得た陳宮は、先行して兗州に赴き、別駕や治中などを説得して回った。この結果、済北の相鮑信らが陳宮の意見に賛同したため、曹操を兗州牧に迎えることができた。
曹操への叛逆
興平元年(194年)、曹操は徐州の陶謙を攻撃すると、陳宮に東郡の守備を委ねた。しかし、曹操軍の大部分が兗州を離れた隙を衝き、陳宮は曹操への叛逆を目論んだ。陳宮は、陳留太守の張邈、その弟の張超、従事中郎の王楷・許汜とともに反乱を計画して、呂布を盟主として迎え入れた。なお張邈の反乱の動機は、曹操が袁紹と同盟して自分を攻撃しようとしているのではないか、という不安だったとされている[4]。しかし、陳宮本人の動機は曹操への疑いを抱いたとあるのみで[5]、詳細が不明である。
張邈らが呂布を迎え入れて曹操に反乱を起こすと、兗州の郡県のほとんどが反乱側に付き、曹操に味方したのは鄄城・范・東阿だけであった。この3城は荀彧・程昱・夏侯惇・曹洪・薛悌・棗祗らが守り抜いた。陳宮は自ら軍を率いて東阿を攻撃したが、程昱が倉亭津の渡しを断ち切ったので行軍が遅れた。このために東阿の防備が固まってしまい、攻撃が失敗した。
興平2年(195年)、曹操は兗州へ再度戻り、呂布軍の薛蘭・李封を鉅野で撃破し、これらをすべて斬った。陳宮は呂布に従い、東緡へ出撃して曹操軍を攻撃したが、曹操軍の伏兵に遭って敗北した。その後も呂布軍は曹操軍の前に敗北を重ね、ついに陳宮も呂布とともに兗州から逃走し、徐州の劉備を頼って落ち延びた。
建安元年(196年)、呂布は劉備を駆逐して徐州を手に入れたが、まもなく配下の将である郝萌が反乱を起こした。この反乱は高順により鎮圧されたが、郝萌の下から寝返り帰参した曹性が「反乱の黒幕は袁術と陳宮」であると呂布に対し供述した。このため陳宮は顔を赤らめた。しかし結局呂布は、陳宮が大将であることを理由として、これを不問にした[6]。
最期
建安3年(198年)冬、曹操が彭城まで攻め寄せてくると、陳宮は呂布に対し直ちにこれを攻撃するよう進言した。しかし、呂布は曹操軍が下邳まで攻め寄せてくるのを待つとして、これを容れなかった。呂布は下邳まで曹操軍が来たところで城外へ出撃したが、敗北して成廉を捕虜にされてしまい、また下邳城内に追い込まれたため、曹操からの勧告もあって降伏しようとした。しかし陳宮は、かつて曹操に反逆したという深い罪を負っていることを自覚していたため、呂布の降伏を阻害した。『献帝春秋』によれば、陳宮は呂布に対し「曹操に降伏するのは、石に向けて卵を投げるようなものです」などと諫言している。
陳宮は、局面を打開しようと呂布に献策するなどしたが、採用されることはなかった。同年末、呂布の縁戚である魏続[7]・侯成・宋憲らが反乱を起こし、陳宮を捕縛して曹操に寝返った[8]。これにより呂布も戦意を喪失し、曹操に降伏した。
曹操が面前に引き立てられた陳宮に「何故このような事になったのか」と問うと、陳宮は呂布を指して「この男が私の言う事を聞かなかったためにこうなったのだ」と答えた。さらに曹操が「老母や子供はどうするつもりだ」と尋ねると、陳宮は「天下を治める者は人の親を殺したり、(その家の)祭祀を途絶えさせたりしないもの。母の生死は貴公の手中にあり、私にはない」と言った。このため曹操は、涙ながらに刑場に向かう陳宮を見送った。しかし陳宮は振り向かなかったという。こうして呂布・高順らと共に絞殺され、許の市において晒し首にされた。曹操は彼の老母ら家族を引き取って厚遇し、陳宮の娘も嫁ぐまで面倒を看た[4][5]。
三国志演義
小説『三国志演義』では、中牟県の県令として登場する。董卓暗殺に失敗し洛陽から逃げ出した曹操を捕まえている。しかし一度は捕らえるも、曹操の志に感服し共に逃亡する。
逃亡途中、二人は曹操と旧知の間柄である呂伯奢の家に立ち寄ったものの、呂伯奢の家族に捕らえられて殺されるのではと疑心暗鬼にかられ、呂伯奢の家族を殺害する。さらに家から逃げ出す途中、曹操はこの事情をまだ知らない呂伯奢をも、口封じのために殺害してしまう。その余りの身勝手さに呆れた陳宮は、曹操が寝入った隙に暗殺しようと考えるが思い留まり、一人で東郡へ去る[9]。
その後、陳宮は東郡で従事を務め、徐州の陶謙とも交流を持つ。曹操が父の仇を討つために徐州に攻め込もうとすると、陳宮は陶謙のために曹操を諫止しようとするが、逆に罵られて追われ、陳留の張邈を頼る。そして、史実通りに張邈らとともに呂布を擁立し、兗州を曹操から奪う。
呂布が曹操に敗れて徐州の劉備の下に逃れると、これに随従していた陳宮は、呂布に進言して劉備を駆逐し、呂布を徐州の支配者とさせる。さらに陳宮は、袁術が派遣した使者韓胤と結託し、曹操らに対抗しようと図る。しかし、密かに呂布の駆逐を狙う陳珪・陳登父子に阻まれ、韓胤は呂布により曹操に引き渡され処刑されてしまう。その後も陳珪父子に行動を妨害されたため、陳宮は呂布に陳父子を退けるよう諫言するが、容れられず嘆息する。
曹操が徐州へ進攻してくると、陳登の裏切りにより、呂布・陳宮は下邳に追い詰められる。曹操の勧告に応じて降伏しようとする呂布を押し止め、陳宮は弓矢で曹操の本陣傘を射抜く。さらに「掎角の勢」を進言して曹操軍を破ろうとするが、呂布の妻厳氏が泣いて呂布を止めたため、実行を取り止めている。敗北後の刑場での曹操とのやり取りは、史実とほぼ同様である。
人物像
当時、智謀の士として名声が高かった陳宮であるが、曹操軍の荀攸は下邳城を包囲した際に「陳宮は智謀こそあるが、決断が遅い」と評している。
『三国志』呂布伝の注に引く「典略」によれば、陳宮は呂布のために策略を立てたが、呂布がいつも陳宮の策略に従わなかったとされる。その事例としては、下邳篭城戦の際のやり取りが挙げられる。陳宮は、呂布が城外に布陣し、自らが城内に留まったうえで曹操の背後を攻撃し、曹操が城を攻めたら、呂布に城外から救援させるよう献策した。しかし、呂布の妻が「曹操が陳宮を我が子のように優遇していたのに、それでも陳宮は裏切りました」との旨を呂布に述べたため、呂布は陳宮の策を採用しなかった[10]。
また、陳宮は高順と深刻な不仲であった。同じく下邳篭城戦の際に、呂布は陳宮と高順に下邳城を守らせ、騎兵を率いて曹操軍の糧道を断とうとしたが、呂布の妻が陳宮と高順の不仲を指摘したため取りやめている[6]。
史実上の彼の行動には不明な点が多く、各創作物では知謀に長けた策士という人物像を基調とし、様々な陳宮像が描かれている。
脚注
- ^ [1] 後漢書 孝献帝紀 第九「十二月癸酉,曹操撃呂布於徐州,斬之」という呂布の没年月日に従う。西暦換算は兩千年中西暦轉換にて。なお、西暦換算だと建安3年は198年1月26日から199年2月13日まであり、199年にずれ込む
- ^ 三国志研究会 編『真説三国志 最強は誰だ? 』2007年、36頁
- ^ 「剛直烈壮、少(わか)くして海内(かいだい)知名の士と皆相連結す」(『三国志』魏書7呂布伝注魚氏『典略』)
- ^ a b 『三国志』呂布伝本伝
- ^ a b 『三国志』呂布伝注魚氏『典略』
- ^ a b 『三国志』呂布伝注『英雄記』
- ^ 盧弼『三国志集解』が引く『英雄記』より。
- ^ 『後漢書』列伝65呂布伝によれば、侯成らは高順も捕えた、としている。
- ^ 曹操が呂伯奢の家族を殺した話は、王沈の『魏書』・郭頒の『世語』・孫盛の『雑記』に記録されているが、この殺害を正当防衛と記した『魏書』から後者になるに従って、曹操の暴虐さが強調される記述に変わっている。しかも、そもそも呂伯奢の件は陳宮と何ら関わりがない。また、呂伯奢をも殺したとするのも演義の創作である。
- ^ 『三国志』呂布伝注『魏氏春秋』、『後漢書』呂布伝
参考文献
関連項目
陳宮(ちんきゅう)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/23 23:00 UTC 版)
「三国志 (北方謙三)」の記事における「陳宮(ちんきゅう)」の解説
曹操の幕僚だったが、王者に対する考えの違いから呂布の幕僚へと鞍替えする。曹操も認める民政と商売の才覚があるが、自分の力の至らなさをいつも気にかけている。
※この「陳宮(ちんきゅう)」の解説は、「三国志 (北方謙三)」の解説の一部です。
「陳宮(ちんきゅう)」を含む「三国志 (北方謙三)」の記事については、「三国志 (北方謙三)」の概要を参照ください。
- >> 「陳宮」を含む用語の索引
- 陳宮のページへのリンク