王楷
興平元年(一九四)に曹操が徐州へ出征したとき、王楷は許汜とともに従事中郎を務めていたが、張超・陳宮とともに叛逆を企てた。陳宮が陳留太守張邈を説得して呂布を兗州牧に迎え入れると、郡県はみな呼応した《呂布伝》。しかし呂布は敗北して徐州に身を寄せ、のちに劉備から徐州を奪い取った《呂布伝》。 建安三年(一九八)、呂布は袁術方に寝返り、高順を沛に派遣して劉備を攻撃させた。曹操は夏侯惇を派遣して劉備を救援させ、みずから征討軍を起こして下邳の城下に着陣した《呂布伝》。 呂布は許汜・王楷を使者として袁術に救援を求めたが、袁術は「呂布は我に女をくれなかったのだから敗北するのが当然だ。いまさら何を言うのか」と難色を示す。許汜らが重ねて「明上(陛下)におかれては呂布の自滅だと思し召しでございますが、呂布が敗れれば明上もまた敗れることになりますぞ」と訴えたので、袁術は承知して武装を固め、呂布に呼応した《呂布伝》。結局、三ヶ月の籠城のすえ、呂布は敗北して斬られた《呂布伝》。 【参照】袁術 / 夏侯惇 / 許汜 / 高順 / 曹操 / 張超 / 張邈 / 陳宮 / 劉備 / 呂布 / 兗州 / 下邳県 / 徐州 / 陳留郡 / 沛県 / 従事中郎 / 太守 / 牧 |
王楷
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/05/03 04:20 UTC 版)
王 楷(おう かい、生没年不詳)は、中国後漢時代末期の政治家。
正史の事跡
姓名 | 王楷 |
---|---|
読み・ピンイン | おうかい |
時代 | 後漢時代 |
生没年 | 〔不詳〕 |
字・別号 | 〔不詳〕 |
本貫・出身地等 | 〔不詳〕 |
職官 | 従事中郎 |
爵位・号等 | - |
陣営・所属等 | 曹操→呂布 |
家族・一族 | 〔不詳〕 |
最初は曹操配下で、従事中郎に任命されていた。
興平元年(194年)、曹操は陶謙を討伐するため徐州に出征した。王楷はこの隙をつき、張邈・張超・陳宮・許汜らと共に、呂布を迎え入れ曹操に叛旗を翻した。この時、兗州のほぼ全域が呂布一派に制圧されている。これ以降、王楷は呂布配下として活動することになった。
建安3年(198年)冬、呂布は曹操に敗退し下邳城内に追い詰められた。このため王楷と許汜は、袁術の元へ救援要請の使者として赴いた。しかし前年の呂布との対立経緯から、袁術は援軍を拒絶する姿勢を示した。王楷と許汜は、呂布が滅びれば次は袁術が攻められる番であると説き伏せ、呂布の娘を送るという条件で、何とか袁術に救援を受諾させることに成功した。しかし、呂布は曹操軍の包囲を突破できる状況になく、実際には袁術の救援を得ることができなかった。
呂布滅亡後、王楷の名は史書に見当らない。呂布と命運を共にしたか、あるいは許汜の様に他の諸侯を頼ったかも不明である。
物語中の王楷
小説『三国志演義』でも、許汜とともに曹操軍の包囲を突破し袁術に救援を求めている。経緯も結末も、ほぼ史実に沿ったものとなっている。
参考文献
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