秦宜禄とは? わかりやすく解説

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秦宜禄Qin Yilu

シンギロク

(?~200
漢銍長

秦朗の父《明帝紀》。秦誼は別名であろうか。

本郡については秦朗の項を参照されること。

秦宜禄は呂布仕え曹操劉備下邳城の呂布包囲したとき、使者として袁術のもとへ赴いて救援求めたそのとき袁術漢王朝皇族の女を彼に娶らせている。秦宜禄の前妻杜氏美人であった関羽杜氏を妻にしたいと曹操願い出た曹操はそれを許可していたが、彼女が美人なのではないか思い、城を陥落させたあと彼女を引見し、関羽がたびたび請願したにもかかわらず結局自分のものにしてしまった《明帝紀・関羽伝》。

秦宜禄は曹操から銍県長任命された。建安五年(二〇〇)、劉備が小沛から敗走したとき、その部下張飛は銍県を通過したが、秦宜禄に「他人が汝(おまえ)の妻を取ったのに、そいつのために県長やっているなんて、こんな馬鹿馬鹿しいことがあるか!我(わたし)と一緒に行かないか?」と言った。秦宜禄は張飛一緒に数里まで行ったが、後悔して帰ろうとしたので張飛殺されてしまった《明帝紀》。

秦宜禄の子秦朗は母とともに曹操引き取られ彼の宮殿成長した明帝紀》。

参照袁術 / 関羽 / 秦朗 / 曹操 / 張飛 / 劉備 / 呂布 / 雲中郡 / 下邳県 / 漢 / 沛県(小沛) / 銍県 / 県長


秦宜禄

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/01/18 18:30 UTC 版)

秦宜禄
後漢
銍県長
出生 生年不詳
并州雲中郡
死去 199年(建安4年)
拼音 Qín Yílù
別名 秦誼[1]
主君 呂布曹操
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秦 宜禄[1](しん ぎろく、? - 199年)は、中国後漢時代末期の武将。并州雲中郡(現在の内モンゴル自治区フフホト市)の人。子は秦朗

事跡

呂布配下。建安3年(198年)、曹操が下邳城に立て籠もる呂布を包囲すると、秦宜禄は呂布の使者として袁術の下へ救援要請に赴いたが[2]、その先で袁術によって滅ぼされた陳愍王の劉寵明帝の後裔)の娘と結婚させられた。なお、秦宜禄には杜氏という妻がおり下邳に留まっていたが、呂布滅亡後に曹操の側室となった。

秦宜禄は呂布が滅亡すると曹操に降り、沛郡県長に任命された。建安4年(199年)に劉備が小沛で曹操に反旗を翻すと、その腹心張飛が秦宜禄の下にやってきて「妻を奪い取った男に仕えるのは愚かなことだ。私について来い」と勧誘した。秦宜禄も最初は受諾したが、すぐに後悔して張飛に「帰りたい」と願い出たため、怒った張飛に殺害されてしまった。

子の秦朗は生母が曹操の側室となり、その養子となった。後にの権臣となった。

なお、小説『三国志演義』には登場しない。

注釈

  1. ^ a b 後漢書』巻72董卓列伝にひく『九州春秋』では、秦誼と記され、呂布の命で董卓で突き刺したと述べている。
  2. ^ 恐らく同僚の許汜王楷に同行したものと思われる。

参考文献

  • 三国志』魏志3明帝紀
  • 同蜀志6関羽伝


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