秦宓
若くして才能と学問があり、州郡から招聘されたが病を称して出仕せず、儒学者の任安を益州牧劉焉に推挙した。また益州治中従事王商も秦宓に出仕を勧めたが、やはり辞退した。あるとき李権という人が『戦国策』を借りに来たが、秦宓は「人を殺して自分だけが生き残るための書物だ」と言って彼を戒めている。 劉備が益州を支配するようになると、広漢太守夏侯纂が秦宓を「仲父」と呼んで師友祭酒・五官掾に招いた。秦宓は仮病を使って屋敷に籠っていたが、夏侯纂が訪ねてきて「仲父、益州とはどのような国か」と訊いた。すると秦宓は益州を流れる長江が中華第一の大河であること、益州生まれの禹が治水により空前絶後の業績を立てたこと、天帝が益州に連動する星座を見て政策を決めることなどを滔々と述べ、小人物のためには仕官しないことを暗に宣言した。 のち益州から招かれて初めて出仕し、従事祭酒となった。劉備が呉の孫権を討とうとしたとき、天の与える時機ではないと反対したため牢獄に幽閉された。建興二年(二二四)、丞相諸葛亮が益州牧を兼任するようになると別駕従事に迎えられ、さらに左中郎将・長水校尉に進められた。 呉の張温は使者として蜀に来訪すると秦宓に尋ねた。張温「あなたは学問をするのか」、秦宓「学問は五尺の童子でもするものだ」、張温「天に頭はあるか」、秦宓「西にある。『詩経』に『乃ち眷として西顧する』とある」、張温「では耳はあるか」、秦宓「やはり『詩経』に『鶴は九皋に鳴き、声は天に聞こゆ』とある」、張温「では足は」、秦宓「これも『詩経』にある。『天の歩みは艱難、この子猶らず』。」、張温「では姓はあるのだろうか」、秦宓「劉氏だ。天子の姓が劉氏だからそうと分かる」、張温「日は東より生まれるが」、秦宓「東に生まれて西で死ぬのだ」。こうして打てば響くように答えて、張温は大いに敬服した。 【参照】禹 / 王商 / 夏侯纂 / 諸葛亮 / 任安 / 孫権 / 張温 / 李権 / 劉備 / 劉焉 / 益州 / 呉 / 広漢郡 / 蜀 / 長江 / 緜竹県 / 五官掾 / 左中郎将 / 師友祭酒 / 従事祭酒 / 丞相 / 大司農 / 太守 / 治中従事 / 長水校尉 / 別駕従事 / 牧 / 詩経 / 戦国策 / 儒学 / 仲父 |
秦宓
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秦宓 | |
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蜀漢 大司農 | |
出生 | 生年不詳 益州広漢郡綿竹県 |
死去 | 建興4年(226年) |
拼音 | Qín Mì |
字 | 子勅 |
主君 | 劉備→劉禅 |
秦 宓(しん みつ、しん ふく[1])は、中国後漢末期から三国時代の学者・政治家。蜀漢に仕えた。字は子勅。益州広漢郡綿竹県の人。
生涯
若い頃から文才や弁論に優れており、州や郡からたびたび招聘されたが、病と称して出仕することはなかった。劉焉の招聘を受けた際にも辞退したものの、湯王と伊尹、何武と襲勝・襲舎の故事を引いて同郷の任安を推薦した。後年、諸葛亮が任安の優れた点を秦宓に尋ねると、「人の善事を記憶し、過失を忘れるところです」と答えた。
劉璋の時代にも、同郷の治中従事王商からの出仕の誘いを拒否した。後に王商が荘遵と李弘のために祠を立てると、秦宓は手紙を送り、司馬相如も祀るように要請した。
同郷の彭羕は傲慢な性格で他人を軽侮することが多かったが、秦宓だけは尊敬し、広漢太守の許靖に推薦した[2]。しかし秦宓がこれに応えた記録は見えない。
劉備が益州を平定した後、広漢太守の夏侯纂は秦宓を五官掾・師友祭酒に任命して仲父と呼んだが、秦宓は病と称して出仕しなかった。夏侯纂は三度その邸宅を訪れ[3]、ある時は功曹の古朴、主簿の王普を伴い、食膳を持ち運んで語り合ったが、それでも秦宓が自邸から出ることはなかった。
その後、劉備に召し出されて従事祭酒となった。劉備が関羽の敵討ちのため呉を攻めようとした際(夷陵の戦い)に諌言し、一時投獄されている。
建興2年(224年)、諸葛亮は益州牧になるとかねてより徳望高い士人を属官に抜擢したが、秦宓もその1人として別駕従事となった[4]。その後、左中郎将・長水校尉に転任した。呉の使者として張温が来訪すると、秦宓は弁舌でもって彼を言い負かし、「蜀に秦宓がいるのは、魯に孔子がいるようなものだ」と称賛を受けた[5]。
五帝の系譜、また皇・帝・王・覇について語り、その論は非常に筋道立っていた。譙周は若い頃に何度も秦宓を訪ねて質問し、その言葉を『春秋然否論』の中に記録した。『三国志』の編者陳寿は秦宓について「世俗から離れることを良しとしながら、愚人のふりをして世を避けようとはしなかった。しかし受け答えには余裕があり、文章は壮麗であった。一代の才士と言えよう」と評した。
三国志演義
小説『三国志演義』では、劉璋配下として登場する。劉璋が劉備を益州に迎えようとした際は反対した。劉備軍の簡雍が降伏勧告に来た時には、簡雍が取った傲慢な態度を一喝している。
出典
- 陳寿『三国志』巻38 蜀書 秦宓伝
脚注
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