宗預とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 人名 > 三国志小事典 > 宗預の意味・解説 

宗預Zong Yu

ソウヨ

(?~264
鎮軍大将軍兗州刺史関内侯

字は徳豔。南陽郡安衆県の人。

建安年間張飛に従って入蜀した。建興初年丞相諸葛亮により主簿任じられ参軍右中郎将昇進する諸葛亮没したとき呉は、魏が衰退に付け込んで蜀を奪い取るではないか懼れ、巴丘の守兵一万増やした。これは蜀への救援図り、また魏の侵攻備えたのである。ところが蜀のほうでも永安駐留兵を増やして巴丘に対抗しようとした。宗預が使者として呉に赴いたとき孫権は「呉と蜀はいわば家族のようなものだが、なぜ永安守備兵増やしたのか」と聞いた。宗預「東の巴丘が増員すれば西の永安増員します。これは情勢次第なのであって問いただすまでもありますまい」。孫権大い笑って宗預の剛直さを認め鄧芝費禕に次ぐ敬意をもって愛した

侍中となり、さらに尚書に昇った。延煕十年(二四七)には屯騎校尉任じられる。このとき車騎将軍鄧芝任地江州から帰っていたが、宗預を嘲って六十歳になった軍事関与しないと『礼記』で定められているのに、君はその歳で初め兵隊を預かる身となったのはどうしたことか」と言った。宗預は反論して「あなたは七十歳になってもまだ兵隊お返ししようとしない六十歳の私が兵隊預かってもいいでしょう」と答えた鄧芝性格傲岸だったので大将軍費禕でさえ彼に気兼ねしていたが、宗預だけは屈服しなかった。

宗預はまた呉に赴いた。その会見が済むと宗預は「呉は蜀がなければ存在できず、蜀は呉がなければ存在できず、君臣ともども互いに両国頼みとしています。陛下には充分神慮をお働かせ下さい。私は年老いて病気がちとなり、もう陛下にはお会いすることが出来ません」と言った孫権彼の手を握って「君は高齢となり、わしも老衰の身だ。もう二度と会えいだろう」と涙を流して悲しみ真珠一石彼に与えた帰還する後将軍昇任し永安駐屯軍指揮委ねられた。のちに任地征西大将軍拝命し、関内侯封じられる

景耀元年(二五八)、病気重くなって成都召し返され鎮軍大将軍兗州刺史任じられた。このころ諸葛瞻朝廷のことを取り仕切るようになり、彼に挨拶しようと廖化誘ったが、宗預は「もう我々は七十歳越えて身に余る栄誉受けた。もう後は死を待つばかりで、若い連中機嫌をとることもあるまいと言って行こうとしなかった。

咸煕元年(二六四)の春、蜀が滅亡したので洛陽移住させられたが、その途中で病気のため亡くなった

参照諸葛瞻 / 諸葛亮 / 孫権 / 張飛 / 鄧芝 / 費禕 / 廖化 / 安衆侯国 / 永安宮 / 兗州 / 魏 / 呉 / 江州県 / 蜀 / 成都県 / 南陽郡 / 巴丘 / 洛陽県 / 右中郎将 / 関内侯 / 後将軍 / 参軍 / 刺史 / 侍中 / 車騎将軍 / 主簿 / 尚書 / 丞相 / 征西大将軍 / 大将軍 / 鎮軍大将軍 / 屯騎校尉 / 礼記 / 真珠


宗預

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/01/24 13:32 UTC 版)

宗預
蜀漢
関内侯・鎮軍大将軍・兗州刺史
出生 生年不明
荊州南陽郡安衆県
死去 咸熙元年(264年
拼音 Zōng Yù
徳艶
主君 劉備劉禅
テンプレートを表示

宗 預(そう よ)は、中国後漢末期から三国時代の武将・政治家。徳艶荊州南陽郡安衆県(現在の河南省南陽市臥竜区)の人。『三国志蜀書に伝がある。

生涯

劉備益州進攻に伴い、張飛に従って入蜀した。建興年間(223年-237年)の初めに丞相府の主簿となり、その後参軍・右中郎将に昇進した。

諸葛亮の没後、が蜀を攻めるのではないかと懸念し、巴丘に1万の兵を増員したため、蜀も白帝城の兵を増員することになり、呉蜀間に軍事的緊張が生じた。宗預は呉への使者となって呉蜀間の緊張を解き、孫権から鄧芝費禕に次ぐ評価を与えられた。

その後侍中に昇進する。さらに尚書へ移り、延熙10年(247年)には屯騎校尉となった。

この時、60歳(概数か)で初めて軍事に参与したことは、礼に反するのではないかと鄧芝に訊ねられたが、鄧芝が70歳になっても兵権を返していないことを挙げて反論した。鄧芝は車騎将軍江州都督の地位にあり、驕慢な性格で知られていたため、大将軍の費禕にも敬遠されていたが、宗預だけは遠慮しなかったという。

再び呉に使いしたとき、孫権は「お互い高齢だから、もう会うこともないだろう」と宗預との別れを惜しみ、真珠を一石与えた。

その後、後将軍・永安都督となった。任地にて征西大将軍に任命され、関内侯の爵位を賜わった。

景耀元年(258年)、病により成都に召喚され、後に鎮軍大将軍・兗州刺史となった。諸葛瞻が政治を取り仕切るようになると、廖化から諸葛瞻の元へ共に赴くよう勧められたが「お互い70歳を過ぎているのに、いまさら若輩に阿ることもないだろう」と断った。

咸熙元年(264年)、前年に蜀は魏に滅ぼされたため(蜀漢の滅亡)、廖化と共に洛陽へ護送されることになったが、その途上で病死した。

参考文献

「正史 三国志 5 蜀書」(陳寿 著、裴松之 注、井波律子 訳)ちくま学芸文庫 ISBN 4-480-08045-7



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「宗預」の関連用語

1
100% |||||

2
36% |||||

3
32% |||||

4
6% |||||


6
6% |||||

7
6% |||||

8
6% |||||

9
6% |||||

10
6% |||||

宗預のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



宗預のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
むじん書院むじん書院
Copyright (C) 2025 mujin. All Rights Reserved.
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアの宗預 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS