廖化
字は元倹。襄陽郡中廬の人《宗預伝・襄陽記》。もとの名を「廖淳」といい、「廖敦」とするのは誤りである《宗預伝・明帝紀集解》。廖氏は代々、沔南地方でも筆頭の名族であった《襄陽記》。 廖化は前将軍関羽の主簿を務めていて、関羽が敗死したため呉に所属したものの、先主(劉備)の元へ帰りたく思っていた。そこで自分が死んだと人々に思い込ませ、老母を抱えて昼も夜も歩いて西へ向かった。ちょうど先主が東征軍を起こしていたので秭帰で遭遇した。先主は大層喜んで廖化を宜都太守に任命する《宗預伝》。決戦に臨んで、大督馮習の元で別働隊を務めた《陸遜伝》。 先主が崩御すると丞相諸葛亮の参軍となり、のちに督広武に任じられた《宗預伝》。蔣琬は諸葛亮から茂才に推挙されると、固辞して廖化らに譲っている《蔣琬伝》。 廖化は陰平太守となり、景初二年(二三八)九月、守善羌侯である宕蕈の陣営を攻撃した。魏の雍州刺史郭淮は広魏太守王贇・南安太守游奕に軍勢を預け、山の東西から廖化を挟み撃ちさせた。魏の明帝は「軍隊というものは分散を避けるものだ」と言い、郭淮に「別働隊のうち必要でない者は引き揚げて要地を守らせるよう游奕に伝えよ」と勅命を下した。その詔勅が届かぬうち、廖化は游奕軍を打ち破り、王贇は流れ矢に当たって死んだ《明帝紀》。 延煕十一年(二四八)、姜維は石営に進出、彊川を通過して西方へ向かい、羌族の治無戴を出迎えた。廖化は成重山に留まって城を築き、羌族たちから人質を取り立てる。魏の郭淮は諸将の反対を押し切って軍勢を二手に分け、夏侯霸には沓中へ姜維を追わせ、自分は諸軍を率いて廖化を攻撃した。姜維は引き返して廖化を救援し、北征は未発に終わった《郭淮伝》。 翌十二年秋、姜維はまた北方へ進出したが郭淮に阻まれて撤退した。郭淮が勝利に乗じて羌族を攻撃するため西方へ出かけた隙を突き、三日後、廖化が軍を返して白水の南岸に布陣して鄧艾と対峙した。もともと廖化が鄧艾を釘付けにして姜維が東進して洮城を奪取する計画であったが、鄧艾に見抜かれ、姜維が洮城に着いたころにはすでに鄧艾が引き返して楯籠っていた《鄧艾伝》。 廖化は次第に昇進して右車騎将軍・仮節・領幷州刺史となり、中郷侯に封ぜられる。果断激烈をもって称えられ、官位は張翼と同等、宗預より右であった《宗預伝》。廖化が張翼とともに大将になったとき、人々は「前に王・句あり、後に張・廖あり」と語り合った《華陽国志》。 『華陽国志』劉後主志は「大将」とし、『三国志』王平伝は同じ文を引用して「大将軍」とする。廖化は大将軍になったことがなく、『華陽国志』が正しい。 諸葛瞻が朝政を統括することになったとき、廖化は宗預の屋敷を訪ねて諸葛瞻に挨拶しに行こうと誘ったが、「吾らは七十歳を越えて望むことは一日でも死を遅らせることのみ。年少の輩に何を望んでこせこせと訪問せねばならんのだ」と断られている《宗預伝》。 景耀五年(二六二)、姜維が軍勢を率いて狄道に進出したとき、廖化は言った。「戦いはやめなければ必ず我が身を焼くことになる(『左伝』)。それは伯約(姜維)のことだ。智略は敵に勝らず、力量も賊に劣っているのだから、それを飽くまで仕掛け続けたとしても、どうやって成功させられようか?『詩経』に、我より先んじず我より後れず、というのは今日のことだ」《宗預伝》。 六年夏、魏の征西将軍鄧艾・鎮西将軍鍾会が大軍を催して侵攻してきた。姜維は上表して援軍を要請、後主劉禅は廖化を姜維の元へ派遣して支援させる一方、張翼・董厥を陽安関へ派遣した。しかし鍾会軍は張翼らが到着する前に陽安関を陥落させたので、姜維・廖化は陰平を放棄して張翼らとともに剣閣に楯籠った。姜維らが鍾会と対峙している隙を突いて、鄧艾が迂回して成都に迫ったので、劉禅は降服した《鄧艾・鍾会・後主・姜維伝》。姜維・廖化らは成都に引き返そうとしたが、鍾会軍に包囲されて全軍降服した《鍾会伝》。 咸煕元年(二六四)春、宗預とともに洛陽に移住することになったが、道中で病気のため卒去した《宗預伝》。 【参照】王贇 / 王平(王) / 夏侯霸 / 郭淮 / 関羽 / 姜維 / 句扶(句) / 諸葛瞻 / 諸葛亮 / 鍾会 / 蔣琬 / 宗預 / 曹叡(明帝) / 治無戴 / 張翼 / 宕蕈 / 董厥 / 鄧艾 / 馮習 / 游奕 / 劉禅 / 劉備 / 陰平郡 / 魏 / 宜都郡 / 彊川 / 剣閣 / 呉 / 広魏郡 / 広武 / 秭帰県 / 襄陽郡 / 成重山 / 成都県 / 石営 / 中郷 / 中廬侯国 / 狄道県 / 沓中 / 洮城 / 南安郡 / 白水 / 幷州 / 沔南 / 陽安関 / 雍州 / 洛陽 / 右車騎将軍 / 仮節 / 郷侯 / 参軍 / 刺史 / 守善羌侯 / 主簿 / 丞相 / 征西将軍 / 前将軍 / 太守 / 大将 / 大督 / 鎮西将軍 / 督 / 茂才 / 詩経 / 羌族 |
廖化
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廖化 | |
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許昌関帝廟の廖化像
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蜀漢 中郷侯・仮節・右車騎将軍・并州刺史 |
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出生 | 生年不明 荊州襄陽郡中廬県 |
死去 | 咸熙元年(264年) |
拼音 | Liào Huà |
字 | 元倹 |
別名 | 廖淳/廖惇(改名前) |
主君 | 劉備→劉禅 |
廖 化(りょう か)は、中国後漢末期から三国時代の武将。字は元倹。元の名は淳(惇とも書かれる)。荊州襄陽郡中廬県の人。『三国志』蜀書宗預伝中にまとまった記載がある。
生涯
関羽に主簿として仕えた。関羽が孫権軍の呂蒙に敗れると呉に属したが、 劉備の下に戻ろうと考え、そこで自分が死んだという噂を流し、母を連れて脱走した。秭帰において呉へ進軍途中の劉備と出会った。喜んだ劉備から宜都太守に任命された[1]。
劉備が崩御すると諸葛亮の参軍となり、のちに広武督に任じられた[1]。蔣琬は諸葛亮から茂才に推挙されると、固辞して廖化らに譲っている[2]。
その後、丞相府参軍、そして陰平太守となり、延熙元年(238年)9月、魏の守善羌侯である宕蕈の陣営を攻撃した。雍州刺史郭淮は広魏太守王贇・南安太守游奕に兵を与え、山の東西から廖化を挟み撃ちさせた。兵力の分散を懸念した曹叡は「別働隊のうち必要でない者は引き揚げて要地を守らせよ」と勅命を下したが、詔勅が届かぬうちに游奕軍は廖化に打ち破られ、王贇は流れ矢に当たって死んだ[3]。
延熙11年(248年)、姜維は北方へ進出し、魏に反乱を起こした羌族の治無戴を出迎えた。また、廖化は成重山に留まって城を築き、羌族から人質を取り立てた。郭淮は諸将の反対を押し切って軍勢を二手に分け、夏侯覇に沓中へ姜維を追わせ、自分は諸軍を率いて廖化を攻撃した。このため、姜維は引き返して廖化を救援せざるを得ず、北伐は失敗に終わった[4]。一方で郭淮らを撃退し[5]、郭淮に破られた治無戴・白文虎らを迎え入れ、益州へ移住させることには成功した。
延熙12年(249年)秋、姜維は再度北方へ進出したが、郭淮に阻まれ撤退した。廖化は郭淮が勝利に乗じて羌族を攻撃するため出陣した隙を突き、三日後に軍を返して白水の南岸に布陣し鄧艾と対峙した。廖化は鄧艾を釘付けにし、姜維は東進して洮城を奪取する計画であったが、鄧艾に見抜かれていた。姜維が洮城に着いた頃には、既に鄧艾が引き返して立て籠っていた[6]。

廖化は次第に昇進し、仮節・右車騎将軍・并州刺史となり、中郷侯に封ぜられた。(張翼と同様景耀2年(259年)のことか)果断激烈をもって称えられ、官位は張翼と同等で宗預より上であった[1]。廖化が張翼とともに大将となったとき、人々は「前に王平・句扶あり、後に張翼・廖化あり」と語り合った[7]。
諸葛瞻が朝政を統括するようになると、廖化は宗預の屋敷を訪ね、諸葛瞻に挨拶をしようと誘ったが「我らが七十歳を過ぎて望むことは、一日でも死を遅らせることのみ。年少の輩に何を望み、せこせこと訪問せねばならんのだ」と断られている[8]。
景耀5年(262年)、姜維が軍勢を率いて狄道に進出した際、廖化は「戦いを止めなければ必ず我が身を焼く(『左伝』)、とは伯約(姜維)のことだ。智略は敵に勝っておらず、武勇も賊に劣っているのだから、北伐を続けたとしても、どうして成功しようか。『詩経』の言う我より先んじず我より後れず、とは正に今日のことだ」と姜維を批判した[9]。
炎興元年(263年)、魏が蜀を攻めた際、姜維・張翼とともに剣閣を守備し鍾会軍に抵抗したが、先に成都が陥落したため降伏した(蜀漢の滅亡)[10]。
咸熙元年(264年)、洛陽に連行される途上で病死した[1]。宗預との会話を見るに、没年齢は70歳代だったようである。
改名の時期
いつ改名したかについて、正確な時期は不明である。呉書陸遜伝には黄武元年(222年)、蜀書蔣琬伝には建興元年(223年)に廖淳の名前があり、また魏書明帝紀注では、景初2年(238年)9月に廖惇と記されている。廖化としての初出は魏書郭淮伝の正始9年(248年)である。
『三国志演義』

小説『三国志演義』では黄巾賊の残党ながら、仲間の杜遠が拉致してきた劉備の妻妾に無礼を働いたため、 首を斬って関羽に差し出す。その際、賊出身の人物を家来にすることを嫌った関羽に拒絶されている。劉備が荊州を手中にした頃に物語へ復帰し、関羽の主簿(幕僚長)となる。関羽が呂蒙に攻められ麦城へ逃げ込んだ時、上庸の劉封・孟達へ援軍を求めに走ったが、拒否されて成都に走った。関羽死後に劉封らの処罰を劉備に訴え、これが孟達の脱走と劉封の処刑につながっている。
北伐の際には諸葛亮配下の将として活躍する。あるとき、諸葛亮の策により司馬懿を追い詰めたが、司馬懿が退路とは別の道にわざと兜を落としたのを真に受け、あと一歩のところで取り逃してしまった。諸葛亮は廖化の戦功を評価したものの、関羽ならば司馬懿を捕らえたであろうと、思い耽ることになる[11]。最期は正史と同様である。
脚注
参考文献
巻3 魏書3 明帝紀、巻26 魏書26 郭淮伝、巻28 魏書28 鄧艾鍾会伝
巻33 蜀書3 後主伝、巻44 蜀書14 蔣琬姜維伝、巻45 蜀書15 宗預伝(付・廖化伝)
巻58 呉書13 陸遜伝
巻7 劉後主志
廖化
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「三国志 (横山光輝の漫画)」の記事における「廖化」の解説
漢水の戦いや荊州の戦い、北伐など随所で活躍する。しかし北伐時には司馬懿を取り逃がす失態を演じており、孔明をして「将が小粒になった」と蜀の人材不足を嘆かせた。孔明亡き後の魏による蜀侵攻時にも、姜維とともに剣閣で魏軍を食い止めた武将として、名前だけ登場する。
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