許慈Xu Ci
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字は仁篤。 劉煕に師事して鄭玄流の学問を修め、『易』『尚書』『三礼』『毛詩』『論語』を学び、建安年間に許靖に従って交州から益州に入った。また当時、益州には魏郡出身の胡潜という者がいた。劉備が益州を平定したとき、長いあいだの動乱によって学問が衰退していたので、許慈と胡潜を学士に任命して、また孟光・来敏らとともに古典の学問を復興させようとした。ところが許慈と胡潜のあいだに次々と異論が巻き起こり、そのたび二人は相手の主張を押さえ込んで自説を主張し、互いに非難したり激怒して張り合った。また書物の貸し借りもしようとせず、時には鞭を振って相手を脅したりする有様で、二人の我を通して相手を嫉妬する態度は極めてひどい様子だった。 劉備は呆れはて、二人を教え諭そうと考え、宴会を催したとき音楽が演奏され始めると、俳優に二人の格好を真似させて争う様子を演じさせた。はじめ俳優たちは言葉を使って相手を罵り合っていたが、しまいには刀や棒を持ち出して相手を押さえ付けようとした。こうして許慈と胡潜は反省した。 胡潜は先に亡くなり、許慈は劉禅の時代に出世して大長秋にまでなった。 【参照】許靖 / 胡潜 / 鄭玄 / 孟光 / 来敏 / 劉煕 / 劉禅 / 劉備 / 益州 / 魏郡 / 交州 / 学士 / 大長秋 / 易経(易) / 三礼 / 尚書 / 毛詩 / 論語 / 俳優 |
許慈
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/07/16 20:36 UTC 版)
許慈 | |
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蜀漢 大長秋 |
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出生 | 生年不詳 荊州南陽郡 |
死去 | 没年不詳 |
拼音 | Xǔ Cí |
字 | 仁篤 |
主君 | 劉備→劉禅 |
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許 慈(きょ じ、生没年不詳)は、中国後漢末期から三国時代の政治家。字は仁篤。荊州南陽郡の出身。子は許勛。
事績
劉熙に師事し、鄭玄の学問をよくした。『易』・『尚書』・『三礼』・『毛詩』・『論語』を学んだ。
劉備の益州平定後、胡潜とともに学士に任命され、孟光・来敏らとともに宮中儀礼の制定に当たった。
許慈と胡潜は大変仲が悪く、劉備にたしなめられるほどであった。
子の許勛は父の学問を受け継ぎ、博士となった。
参考文献
「正史 三国志 5 蜀書」(陳寿 著、裴松之 注、井波律子 訳) ちくま学芸文庫 ISBN 4-480-08045-7
魏志 (魏書) |
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蜀志 (蜀書) |
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呉志 (呉書) |
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