陳震
劉備が荊州牧になったとき従事となり諸郡を取り仕切った。劉備に随行して益州平定に従軍。蜀郡北部都尉となる。蜀郡北部が郡に昇格されて陳震は汶山太守となった。のち犍為太守に転任する。建興三年(二二五)、中央に召されて尚書に任じられ、やがて尚書令に進み、勅命を受けて呉への使者として赴いた。 建興七年(二二九)、孫権が帝号を称すると、衛尉に昇進して呉に赴き、孫権の即位を祝賀することになった。武昌の都に到着すると、呉帝孫権は陳震とともに祭壇に昇り、犠牲の血をすすって盟約を結び、徐州・予州・幽州・青州を呉の領有とし、幷州・涼州・冀州・兗州は蜀の領有とし、司州は函谷関を境界として東西に分割することとした。陳震は帰国して城陽亭侯に封じられた。 同九年、李厳が責任転嫁の発言をして罷免される事件があったが、諸葛亮は蔣琬・董允に手紙をやって「陳震は以前、李厳には腹のなかに棘を抱えていると言っていた。私は棘に触れないようにすればよいと考えていたが、李厳があのような嘘八百を言うとは思わなかった」と言っている。 【参照】諸葛亮 / 蔣琬 / 孫権 / 董允 / 李厳 / 劉備 / 益州 / 兗州 / 函谷関 / 冀州 / 荊州 / 犍為郡 / 呉 / 徐州 / 城陽亭 / 蜀郡 / 蜀郡北部 / 司隷(司州) / 青州 / 南陽郡 / 汶山郡 / 武昌県 / 幷州 / 幽州 / 予州 / 涼州 / 衛尉 / 従事 / 尚書 / 尚書令 / 太守 / 亭侯 / 都尉 / 牧 |
陳震
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陳震 | |
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蜀漢 衛尉・城陽亭侯 |
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出生 | 生年不明 荊州南陽郡 |
死去 | 建興13年(235年) |
拼音 | Chén Zhèn |
字 | 孝起 |
主君 | 劉備→劉禅 |
陳 震(ちん しん)は、中国後漢末期から三国時代の政治家。字は孝起。荊州南陽郡の人。子は陳済。
略歴
劉備が益州を攻略する際には、龐統らと共に劉備に随行した。建安19年(214年)、劉備が益州を支配すると蜀郡北部都尉(後に郡名が変更され汶山太守)となり、後に犍為太守へ転任した。
建興3年(225年)、中央へ戻されて尚書に任じられ、尚書令に昇進した。同年、呉に使者として派遣されているが、目的は史書に記されていない。この年に諸葛亮は南征を実施している。
建興5年(227年)の出師表において諸葛亮は「侍中(郭攸之・費禕)・尚書(陳震)・長史(張裔)・参軍(蔣琬)、此れ悉く貞良死節の臣なり」と陳震を称えた。
建興7年(229年)、同盟関係にあった呉の孫権が皇帝に即位し、蜀の国内は動揺したが、諸葛亮は呉との同盟関係を継続することに決め、衛尉に昇進していた陳震を祝賀の使者として呉に赴かせた(「諸葛亮伝」が引く『漢晋春秋』)。諸葛亮は兄の諸葛瑾に手紙を送り、陳震を「老いてますます誠実な性格である」と賞賛し、呉蜀の友好関係を発展させるに相応しい使者だと紹介している。陳震は呉との国境で、関守への書状で自国は「西朝」、孫権は「東尊」と表記した上で、呉で禁忌となる表現などについて協議した(蜀書「陳震伝」)。陳震は使者として謙虚にふるまい、武昌において孫権と会盟し、天下を分配することを誓約し合った(呉志「呉主伝」)。それは呉が徐州・豫州・幽州・青州を、蜀が并州・涼州・冀州・兗州をそれぞれ領有し、司隷は函谷関を境界にする、という内容であった。陳震は帰国後、城陽亭侯に封じられた。
建興9年(231年)、李厳は兵糧の輸送がうまくいかず、責任転嫁のため偽りの発言をして免職となった。諸葛亮は蔣琬と董允に手紙を送り「陳震は以前呉に赴く際、李厳は腹の中に棘があり郷里の人も近づけない、と話してくれた。私は、棘というものは触れなければよいだけだと思っていたが、蘇秦・張儀のような舌先のごまかしが突然行われるとは思いもよらなかった。陳震にこれを知らせてやらねばならない」と述べた。
建興13年(235年)に死去し、子の陳済が跡を継いだ。
陳寿は陳震を「忠実・謙虚で、老いてますます慎ましい人物であった」と評している。
三国志演義
小説『三国志演義』では、はじめ袁紹に仕えており、徐州で曹操に敗れ袁紹に身を寄せた劉備と親しくなり、曹操に降伏していた関羽への連絡役を引き受けている。劉備が劉表との同盟の使者に行くと称し袁紹の下を離れた後は、袁紹の命を受け江東の孫策との同盟の交渉に赴いたが、袁紹との同盟に乗り気であった孫策が急死すると、後継者の孫権は曹操と同盟を結ぶことにしたため失敗している。後に劉備の元へ身を寄せるようになるが、ほぼ名のみの登場である。
陳震
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「私説三国志 天の華・地の風」の記事における「陳震」の解説
字は考起で、棐妹と同じ細作の一員。羽扇分解・棐妹帰参後に「頭」として初登場している。二日ほどかかる南屏山付近の詳細な地形調査を翌昼までに完遂しなければ自分も孔明も命が無い趣旨の劉備にしては珍しい厳命を受ける。赤眉の手から守るため、孔明を警護している。孔明の秘め事を諫めようとするも、断ち切れないと返される。
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