蜀漢の対策
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/13 10:05 UTC 版)
223年中ごろ、諸葛亮は、劉備が病没したばかりであったため、民心の安定と糧秣の備蓄を実施していた。呉との間では、和平を結ぶために、鄧芝、陳震を派遣した。また、越嶲郡太守の龔禄を南中との境界にある安上県に派遣して事態に備えさせ、蜀郡従事の頎行を直接南中へ派遣して調査させた。 他方、李厳は、6通の信書を雍闓に送って利害を説いたが、雍闓は、1通のみ返信し、「天に二王なし、地に二王なしと聞くが、現在、天下は三分鼎立の局面にあり、それぞれが正朔を制定しているため、遠方にある者(雍闓)は、いずれに属すべきかわからない」と述べた。この信書は、非常に傲慢に思われる内容であった。 頎行は、牂柯郡に到達した後、直ちに主簿(中国語版)を拘束して、事実関係を確認した。朱褒は、頎行を殺害して、反乱軍に加わり、龔禄もまた、高定に殺害された。当時、雍闓に服従しない異民族が存在したため、雍闓は、かれらが信服している孟獲を派遣して、異民族の長を説得させた。孟獲が、「官府が胸の黒い犬300頭、蟎腦3斗、3丈の木3000本を要求しているが(黒い犬や蟎腦は、入手困難であり、木は硬くて曲がっており、2丈に満たない長さのものしかなかった)、お前たちは用意できるか?」と述べたところ、異民族の長らは、孟獲を信頼し、蜀漢に対して激怒して、反乱軍に加わった。
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