雍闓
雍闓はもともと南方において恩徳・信義によって有名だった《張裔伝》。章武三年(二二三)四月、雍闓は蜀帝劉備が永安宮で崩御したと聞くと、次第に傲慢な態度を取るようになり《呂凱伝》、ついには太守正昂を殺害した《張裔伝》。交州刺史歩騭・交趾太守士燮が郡民を引き連れて東に味方するよう誘ったので《歩騭・士燮伝》、雍闓ははるばる呉に通じ《張裔・呂凱伝》、新たに張裔が太守として赴任すると、巫女のお告げにかこつけて「張府君(ちじ)はひょうたんの壺のようなものだ。外側は光沢があるが内側は粗雑である。殺すまでもない、呉のために縛るまでだ」と言い、彼を呉に送り飛ばしてしまった《張裔伝》。 また越巂の叟族高定元や牂牁郡丞朱褒らも彼に同調した《後主・李恢伝》。丞相諸葛亮は先帝の喪のため軍を起こすことができず《諸葛亮伝》、中都護李厳に手紙を書かせて利害を説得した《呂凱伝》。前後六通の手紙をやったが、雍闓は一通の返書しか出さず、しかも「天に二日なく地に二王なしと聞いておりますが、いま天下は鼎立して暦は三つもあり、田舎者は戸惑って誰に帰服したらよいのかわからないのです」といった慢心ぶりだった《呂凱伝》。 益州の夷(えびす)たちは雍闓に従おうとしなかったので、孟獲を使者として味方するように誘った。孟獲は彼らに「お上は斲木(樹木の種類?)の材木三丈のものを三千枚差し出せと言っている。汝(おまえ)たちにそれができるか」と嘘をついた。斲木は材質が堅いうえ曲がって伸びるので、高さは二丈にもならないのであった。夷たちは彼の言うとおりだと思って雍闓に荷担することにした《華陽国志》。 呉の孫権は彼を永昌太守に任命するとともに《呂凱伝》、前益州牧劉璋の子劉闡を益州刺史に任じて交州との境に進出させた《劉璋伝》。永昌郡は益州郡から西方にいったところにあり、(雍闓によって)道路は封鎖されて成都とは切り離され、太守は召し返されていた。雍闓は太守として永昌郡に入ろうとしたが、郡の五官掾功曹呂凱と郡丞王伉が官吏・人民を集めて郡境を封鎖していた。雍闓は何度も檄文を発したが、呂凱らが固く拒絶したため入ることができなかった《呂凱伝》。 建興三年(二二五)春、諸葛亮は南征の軍を起こし、水路を取って安上から越巂郡に入った。ここで軍勢を分けて馬忠を牂牁に派遣し、平夷に駐屯していた李恢を益州郡に進入させた《華陽国志》。李恢は道を探りながら昆明まで進んだが、そこで益州郡の大軍に包囲され、諸葛亮との連絡も途絶えてしまう。李恢の軍勢は敵の半分しかなかった。李恢が「官軍の兵糧は底を突いて撤退の準備を始めている。吾(わたし)は長らく郷里を離れていたが、やって帰ってくることができたのだ。ふたたび北には帰らないぞ。汝たちと一緒に計画したいのだ」と言うと、益州郡の軍勢は彼を信じて包囲をゆるめた。そこで李恢は出撃して益州郡の軍勢を大破した《李恢伝》。 李恢と戦った軍勢の正体が今一つわからない。この軍勢のなかに雍闓がいて指揮を執っていたのだろうか。あるいは永昌郡に赴いた雍闓に代わって孟獲らが統括していたのかも知れない。 一方、高定元は全軍を卑水に集結させて諸葛亮と戦っていたが、やはり大敗した。そのさなか高定元の部曲が益州太守王士もろともに雍闓を殺害した《華陽国志》。その高定元も諸葛亮に斬られている《華陽国志》。 益州太守とともに殺されていることを考慮すると、このとき雍闓はすでに降服していたものと推測される。南方が平定されると、諸葛亮は現地住民のうち足弱の者を豪族の焦・婁・爨・孟・量・毛・李氏らと並んで雍氏に預けているのである《華陽国志》。 【参照】王伉 / 王士 / 高定元 / 士燮 / 朱褒 / 諸葛亮 / 正昂 / 孫権 / 張裔 / 馬忠 / 歩騭 / 孟獲 / 雍歯 / 李恢 / 李厳 / 劉璋 / 劉闡 / 劉備 / 呂凱 / 安上県 / 永安宮 / 永昌郡 / 益州 / 益州郡 / 越巂郡 / 呉 / 交趾郡 / 交州 / 什邡県 / 蜀 / 成都県 / 牂牁郡 / 滇池県(昆明) / 卑水県 / 平夷県 / 郡丞 / 侯 / 五官掾功曹 / 刺史 / 丞相 / 太守 / 中都護 / 牧 / 鬼(巫女) / 叟族 / 大姓(豪族) / 斲木 / 部曲 |
雍闓
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雍 闓(よう がい、? - 225年)は、中国後漢末期から三国時代にかけての武将。『三国志』蜀志「呂凱伝」などに記録がある。益州南部の建寧郡の豪族。
生涯
劉備の死後、蜀の支配を受けることに抵抗し太守正昂を殺害、張裔を捕縛して反乱を起こした。李厳は手紙を送って説得を試みた。しかし雍闓は「天には二つの太陽は無く、地には二人の王はいないという。しかし今は天下が三分されており、遠くの者は誰に属したらいいものか分からず戸惑っているのです」と答えたという。反乱は隣接する郡にも広がり、朱褒や高定もこれに同調した。ただし永昌郡だけはこれに同調しなかった。
雍闓は、呉に服属していた交州の士燮を通じ呉への帰服を申し出て、捕えていた張裔を呉に送った。また、呉の交州刺史であった歩騭の取次ぎも受け、雍闓は孫権から永昌太守に任命された。
雍闓は高定と共に永昌郡を襲撃したが、領民をまとめ郡境を塞いだ呂凱に侵攻を阻止された(「呂凱伝」)。これを受けて諸葛亮自らが李恢・馬忠に軍勢を分けて討伐したが、雍闓は討伐軍が到達する前に、益州太守を名乗っていた王士とともに高定の部下に殺害された(『華陽国志』南中志)。
三国志演義
小説『三国志演義』では、劉備没後に南蛮王孟獲の扇動を受けて、反乱を起こした益州南部3郡の太守の一人として登場する。諸葛亮の討伐軍に抵抗するが、諸葛亮の計略にかかった高定の部下鄂煥に斬殺されている。
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