高定元
(?~225) | ||
越巂郡の叟族の大帥《華陽国志》。『三国志』では彼を「高定」と呼ぶがここでは『華陽国志』に従う。 単に「定元」とも呼ばれていることから彼が「高」を姓としたのは確実。あるいは「元」というのは匈奴における「単于」のような叟族の王号かも知れない。 建安二十三年(二一八)、高定元は軍勢を派遣して新道県を包囲させていたが、犍為太守李厳が郡境を越えて進軍してきたため高定元軍は敗走している《李厳伝》。 章武三年(二二三)、蜀帝劉備が崩御すると《李恢伝》、高定元は王を自称し、都督李承之を派遣して太守焦璜を殺害した《華陽国志》。益州郡の豪族雍闓も太守正昂を殺害し、後任の太守張裔を呉の孫権のもとへ送り飛ばした《張裔伝》。また牂牁郡でも郡丞朱褒が太守を僭称している《後主・李恢・馬忠伝》。孫権は前益州牧劉璋の子劉闡を交州との境に派遣して益州刺史としている《劉璋伝》。このとき丞相諸葛亮は先帝の喪に服して軍勢を起こすことができず《諸葛亮伝》、その間、高定元は旄牛から定莋・卑水にかけて防塁を数多く築いていた《華陽国志》。 建興三年(二二五)春、諸葛亮は南征の軍を起こすと、水路を取って安上から越巂郡に入り、高定元の軍勢が結集するのを待ってから卑水で攻撃をかけた《華陽国志》。高定元は部曲を遣わして益州太守王士と雍闓を殺害し、新たに孟獲を指導者に立てたが《華陽国志・呂凱伝》、結局、高定元は諸葛亮に斬られてしまった《華陽国志》。しかし越巂郡の叟族はその後も太守龔禄を殺害するなど、しばしば叛乱を起こしている《張嶷伝》。 諸葛亮が水路を取ったのは、成都から越巂郡に直結する陸路が旄牛族によって塞がれていたため。旄牛ルートのほうが近いうえ平坦であった《張嶷伝》。賊軍の結集を待ったのは一度の戦いで勝敗を決するためで、曹操が馬超を破ったときと同じ戦略。各個撃破が兵法のセオリーだが、郡内各所に点在する敵拠点を一つづつ攻略するのは時間がかかりすぎると思われたのだろう。高定元が雍闓を殺したのは、彼がいち早く諸葛亮に降服してしまったためと思われる。 【参照】王士 / 龔禄 / 朱褒 / 諸葛亮 / 焦璜 / 正昂 / 孫権 / 張裔 / 孟獲 / 雍闓 / 李厳 / 李承之 / 劉璋 / 劉闡 / 劉備 / 安上県 / 益州 / 益州郡 / 越巂郡 / 犍為郡 / 呉 / 交州 / 蜀 / 新道県 / 牂牁郡 / 定莋県 / 卑水県 / 旄牛県 / 郡丞 / 刺史 / 丞相 / 太守 / 都督 / 牧 / 華陽国志 / 叟族 / 大帥 / 大姓(豪族) |
高定
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高 定(こう てい)
高 定[1](こう てい、? - 225年)は、中国後漢末期から三国時代にかけての人物。益州南部の越巂郡の出身。タイ系叟族の王である(「後主伝」)。『三国志』蜀志や『華陽国志』南中志に記されている。
生涯
新道県を包囲したが、李厳が援軍に駆けつけたため敗走した(「李厳伝」)。
223年、建寧郡の有力者である雍闓が呉と通じ、太守を殺害したり捕縛するなど反乱を起こした。同年夏には牂牁郡太守(又は郡丞)の朱褒も雍闓に呼応した。このような状況下、高定も再び越巂郡で反乱を起こし、太守である焦璜を殺害したという(『華陽国志』)。
呉より永昌太守に任じられた雍闓と共に、蜀漢の永昌郡に侵攻したが、呂凱らが人心を統率し郡境を閉ざしたため、落すことができなかった(「呂凱伝」)。
225年春3月、諸葛亮が南征の軍を起こすと、雍闓との間に確執が生じ、高定の部下が雍闓を殺害した(「呂凱伝」)。
高定は諸葛亮・李恢が率いる討伐軍と戦うも再び敗北、捕らえられて晒し首に処された(『華陽国志』)。
越巂郡はこうして平定されたが、諸葛亮の帰還後も異民族の反乱が再発し、その度に李恢が鎮圧にあたったという(「李恢伝」)。
越巂太守は龔禄や焦璜が殺されて以降、任じられた者も恐れて郡内に入らず、越嶲郡は名目上の存在となっていたが、240年に太守に任命された張嶷が蜀漢の支配を回復した(「張嶷伝」)。
三国志演義での高定
小説『三国志演義』では、越巂太守として登場する。劉備死後の蜀に不満を持ち、南蛮王孟獲に扇動された他の益州二郡の太守と同調し反乱を起こす。しかし、部下の鄂煥が諸葛亮の捕虜となり、また諸葛亮の「離間の策」によって雍闓と朱褒の仲が裂かれ、さらに雍闓が鄂煥に討たれてしまう。このため高定は諸葛亮へ帰順することに決める。しかし諸葛亮から疑われ、朱褒の首級を取ってくるよう命じられることになる。高定は命令に従って朱褒を攻め滅ぼしたため、その功績から益州南部三郡を任せられる設定となっている。
脚注
- ^ 『華陽国志』南中志では「高定元」。
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