朱褒
越巂郡の叟族の高定元が太守焦璜を殺害し《華陽国志》、益州郡の豪族雍闓も太守正昂を殺害して、その後任の張裔を呉に送り飛ばすと《張裔伝》、呉の孫権は前益州牧劉璋の子劉闡を益州刺史に任じて交州境に進出させた《劉璋伝》。建興元年(二二三)夏《後主伝》、朱褒は郡丞でありながら太守を自称し、自分勝手に振る舞うようになった《華陽国志》。 この時点では自分勝手に振る舞っているだけで叛逆の意志を明らかにはしていなかったのだろう。こののち常頎による査察があり、朱褒は彼を殺害して叛乱を起こしたと『華陽国志』は記す。 丞相諸葛亮は先帝劉備が崩御したばかりで軍を起こすことができなかったため《諸葛亮伝》、朱褒が謀叛を企てていると聞いて益州従事常頎を南方に派遣した。常頎は牂牁郡に到着すると、郡の主簿を逮捕して尋問を行い、主簿を処刑した。そのため朱褒は激怒し、常頎を殺して彼が謀叛したのだと誣告した。諸葛亮は常頎の子供たちを処刑して朱褒の気持ちを落ち着けようとしたが、朱褒は改悛することなく、とうとう郡を挙げて叛逆して雍闓に呼応した《後主伝》。 同三年春、諸葛亮は南征軍を起こすと馬忠を派遣して牂牁郡を平定させ、南方が鎮定されると彼を太守に任命した《華陽国志》。 【参照】高定元 / 諸葛亮 / 焦璜 / 常頎 / 正昂 / 孫権 / 張裔 / 馬忠 / 劉璋 / 劉闡 / 劉備 / 雍闓 / 益州 / 益州郡 / 越巂郡 / 呉 / 交州 / 朱提郡 / 牂牁郡 / 郡丞 / 刺史 / 従事 / 主簿 / 丞相 / 太守 / 牧 / 叟族 / 大姓(豪族) |
朱褒
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/01/05 16:34 UTC 版)
朱 褒(しゅ ほう、生没年不詳)は、中国後漢末期から三国時代にかけての人物。益州牂牁郡(または朱提郡)の人。『三国志』蜀志「後主伝」・「馬忠伝」などに記述がある。また『華陽国志』南中志にも記述がある。
生涯
蜀漢を建国した劉備が没した後、南中地方(益州南部の4郡)において反乱を起こした人物の一人である。
牂牁郡の郡丞だったが、先に反乱を起こしていた有力者の雍闓に呼応し、建興元年(223年)夏に自ら太守と称して蜀に反旗を翻した[1]。以前から越巂郡において、蜀に反抗的な姿勢をとっていた高定も、同時期に再び反乱を起こした(「後主伝」)。
朱褒が反乱を起こした理由として、以下のような逸話がある。
諸葛亮は、益州従事の常房(常頎)を派遣させた。常房は益州南部一帯での巡察中に、朱褒が異心を抱いていると考え、その主簿を詰問し斬首した。このため朱褒はこれに怒り、常房を殺害した上で、常房が反乱を企んだため殺害したと誣告した。この容易ならぬ事態を悟った諸葛亮は、朱褒を懐柔するために常房の息子たちを斬首し、その弟4人を越巂郡へ流刑に処して詫びたが、それでも朱褒の気持ちを変えることはできなかった(「後主伝」が引く『魏氏春秋』)。
ただし、裴松之は「常房(常頎)が朱褒によって誣告されたのなら、(諸葛亮ら)為政者は当然この事態を予想する筈で、なぜ無実な(常房の子の)処刑を命じ、邪悪な連中を喜ばせる必要性があるのか。これは(後世の)作り話だと見てよいだろう」と否定的な見解を示している。
諸葛亮は、雍闓たちを支援する呉に鄧芝を送り、外交関係を修復させた上で(「鄧芝伝」)、建興3年(225年)春3月に自ら軍を率いて南中に遠征した(「後主伝」・「諸葛亮伝」)。
諸葛亮が李恢の軍と合流すると(「李恢伝」)、膨れ上がった蜀軍を前に雍闓たちは動揺、まもなく彼らの間に確執が生じて、高定の部下が雍闓を殺害した(「呂凱伝」)。高定もまた諸葛亮らの軍に敗れ処刑された。ついには朱褒の軍勢も駆逐され、同年秋に諸葛亮は南中4郡を平定し(「諸葛亮伝」・「後主伝」)、牂牁太守には馬忠を任命した(「馬忠伝」)[2]。
三国志演義
小説『三国志演義』では、益州南部三郡の太守の一人として登場する。南蛮王孟獲の扇動に呼応し反乱を起こしている。南蛮征伐の軍を起こした諸葛亮は、まず先に高定を降し、高定とその部下鄂煥に調略をかけて利用し、雍闓を始末させる。さらに諸葛亮は高定を利用するため、朱褒が高定のことを讒言してきたと述べ、高定たちに朱褒を襲撃させ殺害させている。
脚注
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