劉闡とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 人名 > 三国志小事典 > 劉闡の意味・解説 

劉闡Liu Chan

リュウセン
リウセン

(?~?)
御史中丞

劉璋の子劉循の弟《劉璋伝》。一名劉緯」《劉璋伝》、または「劉禕」《先主集解》。

劉闡の人となり慎み深く財貨軽んじて義侠愛し仁慈謙譲風格持っていた《劉璋伝》。

建安十七年(二一二)、益州滞在していた劉備荊州引き揚げる聞き白水関守将の楊懐高沛とともに劉備見送った劉備酒宴設けて彼らを出迎えたが、その席上楊懐らを斬殺している《先主集解》。

父の益州劉璋劉備降り、振威将軍印綬返してもらって公安駐屯命じられた。孫権荊州襲撃し関羽殺したとき、劉璋改め益州牧に任じられ秭帰駐屯し、その地で没した。のちに南中豪族雍闓益州郡占拠して呉に味方したとき、孫権は劉闡を益州刺史任じて交州益州境界占領させたが、諸葛亮南方平定したので、劉闡は呉に帰国し御史中丞任じられた《劉璋伝》。

のちに病気にかかり、家で臨終迎えた劉璋伝》。

参照関羽 / 高沛 / 諸葛亮 / 孫権 / 楊懐 / 雍闓 / 劉循 / 劉璋 / 劉備 / 益州 / 益州郡 / 荊州 / 呉 / 公安 / 交州 / 秭帰県 / 南中 / 白水県白水関) / 御史中丞 / 刺史 / 振威将軍 / 牧 / 印綬


劉闡

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/04/29 09:48 UTC 版)

劉闡

御史中丞
出生 生年不詳
荊州江夏郡竟陵県
拼音 liú chǎn
主君 劉璋劉備孫権
テンプレートを表示

劉 闡(りゅう せん)は、中国後漢末期、及び三国時代の政治家。一名は劉緯本貫荊州江夏郡竟陵県[1]

生涯

益州劉璋の次子。建安19年(214年[2]、劉璋が劉備に降伏した後、共に荊州公安県に移住する。

建安24年12月(220年年始)[3]孫権が劉備配下の関羽を殺害し、荊州を制圧すると、また父と共に孫権に帰順する。

呉の黄武2年(223年[4]、益州南部で雍闓蜀漢から離反し、呉に与すると、劉闡は孫権から益州刺史に任じられ、交州と益州の州境に赴任する。その雍闓の乱が諸葛亮によって平定されると、劉闡は呉に召還され、御史中丞に任じられた。

後に病気のため、自宅にて死去した。その人となりは慎み深く、財を軽んじ、義を尊び、仁譲の風があったと言われる。

出典

脚注



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「劉闡」の関連用語

劉闡のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



劉闡のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
むじん書院むじん書院
Copyright (C) 2025 mujin. All Rights Reserved.
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアの劉闡 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS