劉循
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劉璋の長子、劉闡の兄、龐羲の女婿《劉璋伝》。「劉脩」「劉修」とも書かれる《華陽国志》。 祖父の益州牧劉焉は緜竹から雒城へと移って城門を建設したが、「ここは王者の地ではありません」と言う者があったので、孫の劉循をこの地に残して成都へと移っていった《華陽国志》。 葭萌に駐屯していた劉備が叛逆し、建安十八年(二一三)、進軍して雒城を包囲した。このとき劉循は城を固めて一年近くも攻撃を防ぎ続けた《先主伝》。この戦闘では劉備の軍師中郎将龐統が流れ矢に当たって落命している《龐統伝》。しかし翌十九年夏、ついに陥落する《先主伝》。 劉備が蜀を平定したとき、龐羲は左将軍司馬に任じられたが、劉璋の時代、劉循を留めておくようにとの龐羲の進言に従っていたので(?)、劉備は奉車中郎将に任命した《劉璋伝》。 龐羲の進言うんぬんは意味が採りにくい。雒城が陥落したのち、劉璋が劉循を成都に呼び返したということであろうか。 【参照】龐羲 / 龐統 / 劉焉 / 劉璋 / 劉闡 / 劉備 / 葭萌県 / 蜀 / 成都県 / 緜竹県 / 雒県 / 軍師中郎将 / 左将軍 / 司馬 / 奉車中郎将 / 牧 |
劉循
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/04/26 09:24 UTC 版)
劉循 | |
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後漢 奉車中郎将 |
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出生 | 生年不詳 荊州江夏郡竟陵県 |
拼音 | Liú Xún |
主君 | 劉璋→劉備 |
劉 循(りゅう じゅん)は、中国後漢末期の武将。本貫は荊州江夏郡竟陵県[1]。益州牧劉璋の長子。妻は龐羲の娘[2]。
建安18年(213年)、劉備の攻撃から雒城を守った。固守すること1年に及んだが、建安19年(214年)に雒城は陥落。同年内に成都の劉璋も降伏した(劉備の入蜀)[3]。
劉備の支配下では、劉璋は荊州の公安県に移住させられたが、劉循は益州に留められ、奉車中郎将に任じられた[2]。
三国志演義
羅貫中の小説『三国志演義』では第62回から登場[4]。史実と同じく、劉備の攻撃から雒城を守る。ただし共に雒城を守った張任や劉璝とは異なり、出撃して劉備軍と交戦した描写はない。
守将の一人である張翼が劉璝を殺し、劉備に降伏すると、城を抜け出し成都へと逃げ帰った[5]。
脚注
- ^ 陳寿撰、裴松之注『三国志』蜀書 劉焉伝記載、祖父の劉焉の本貫。s:zh:三國志/卷31#劉焉
- ^ a b 『三国志』蜀書 劉璋伝 s:zh:三國志/卷31#劉璋
- ^ 『三国志』蜀書 先主伝 s:zh:三國志/卷32
- ^ s:zh:三國演義/第062回
- ^ s:zh:三國演義/第064回
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