『三国志』
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時期不明 - 倭国で男性の王の時代が続いた(70-80年間)が、その後に内乱があり(5-6年間)、その後で一人の女子を立てて王とした(卑弥呼の即位)。その女子の名を卑弥呼といい、1000人の侍女たちを使えさせたという。 景初二年(238年)12月 - 卑弥呼、初めて難升米らを魏に派遣。魏から親魏倭王の仮の金印と銅鏡100枚を与えられた。 正始元年(240年) - 帯方郡から魏の使者が倭国を訪れ、詔書、印綬を奉じて倭王に拝受させた。 正始四年(243年)12月 - 倭王は大夫の伊聲耆、掖邪狗ら八人を復遣使として魏に派遣、掖邪狗らは率善中郎将の印綬を受けた。 正始六年(245年) - 難升米に黄幢を授与。 正始八年(247年) - 倭は載斯、烏越らを帯方郡に派遣、当時、卑弥弓呼(卑彌弓呼、ひみここ、ひみくこ)が治める狗奴国との戦いを報告した。魏は張政を倭に派遣し、難升米に詔書、黄幢 を授与。 時期不明 - 卑弥呼が死に、墓が作られた。男の王が立つが、国が混乱し互いに誅殺しあい千人余が死んだ。卑弥呼の宗女「壹與(台与、いよ、とよ)」を13歳で王に立てると国中が遂に鎮定した。倭の女王壹與は掖邪狗ら20人に張政の帰還を送らせ、掖邪狗らはそのまま都に向かい男女の生口30人と白珠5000孔、青大句珠2枚、異文の雑錦20匹を貢いだ。
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『三国志』
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「三国志 (歴史書)」も参照 『三国志』は三国の内の魏を正統として扱ったが、魏を正統とした類書はほとんどが『魏書』(王沈の著など)など、魏単独の表題としていた。蜀漢や呉の歴史は、あくまで『魏書』の中で語られたのである。これに対し陳寿は表題上は三国を対等に扱い、また本文も『魏書』『呉書』『蜀書』と三国を分けて扱ったところに大きな違いがある。また、元は蜀漢に仕えた人物であったため、敬語の使い方などからも蜀漢を比較的よく扱おうとする姿勢が見える。 『三国志』は私撰だったが、陳寿の死後にはこれを筆写するよう勅命が下り、事実上公認の書物となった。その後唐の太宗の時代に正史と認定された。なお『古国志』・『益州耆旧伝』など、『三国志』以外の彼の著作物は現存していない。
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『三国志』
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韋昭らが執筆した『呉書』は、陳寿の書いた『三国志』の参考資料の一つとして挙げられるのみならず、『三国志』の「呉志(呉書)」の部分は、韋昭らの『呉書』に基づき、それを編集したものであろうと推測される。ただし、原稿となる『呉書』は未完成だったため、陳寿の『三国志』「呉志」において、列伝の一部がぶつ切れていたり、列伝の時系列がばらばらであったり、重要人物の列伝が立てられていない、などの粗な部分が見受けられるのもこのためだと思われる。
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