『三国史記』の記述
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東城王が501年12月に暗殺された後、首都熊津(忠清南道公州市)で即位した。暗殺者の衛士佐平(禁軍を司る1等官)の苩加は加林城(忠清南道扶余郡林川面)に拠って抵抗したが、すぐに鎮圧された。武寧王はしばしば漢江流域に対する高句麗・靺鞨の侵入を撃退し、512年には高句麗に壊滅的打撃を与えている。521年には中国南朝の梁に入朝して「百済はかつて高句麗に破られ何年も衰弱していたが、高句麗を破って強国となったので朝貢できるようになった。」と上表した。これにより梁からは、もとの<都督百済諸軍事・寧東大将軍・百済王>から<使持節・都督百済諸軍事・寧東大将軍・百済王>に爵号を進められた。523年5月に死去し、武寧王と諡された。
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