蘇我氏渡来人説とその否定
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/23 10:17 UTC 版)
門脇禎二が1971年に蘇我氏渡来人説を提唱した。門脇が提唱したのは応神天皇の代に渡来した、百済の高官、木満致(もくまち)と蘇我満智(まち)が同一人物とする説で、鈴木靖民や山尾幸久らの支持を得た一方、加藤謙吉や坂本義種らが批判したように、史料上の問題点が多い。文化や政治の源流を何でも朝鮮諸国に求めると言った20世紀後半の風潮の中で提唱されており、根拠が不十分であるという指摘がある。現在では蘇我氏渡来人説は否定されている。 問題点は整理すると以下の通りであり、木満致と蘇我満智を同一人物であると実証することには問題点がある。 「木満致」の名が見える『日本書紀』の応神天皇25年(西暦294年、史料解釈上は414年)と「木刕満致」の名が見える『三国史記』百済本紀の蓋鹵王21年(西暦475年)とでは時代が異なる 百済の名門氏族である木満致が、自らの姓を捨て蘇我氏を名乗ったことの不自然さ 渡来系豪族が自らの出自を改変するのは8世紀以降であること 木刕満致が「南行」したとの『三国史記』の記述がそのまま倭国へ渡来したことを意味しないこと 百済の名門氏族出身でありながら、孫の名前が高句麗を意味する高麗であること 蘇我氏の家系においては、日向、蝦夷など血縁と直接関係のない地域名等を用いる場合があった。満智の子は韓子(からこ)で、その子(稲目の父にあたる)は高麗(こま)という異国風の名前であることも渡来人説を生み出す要因となっているが、水谷千秋は「蘇我氏渡来人説」が広く受け入れられた背景を蘇我氏を逆賊とする史観と適合していたからではないかと述べている。なお、「韓子」という言葉は任那人(半島に渡った倭人の子孫)である子の通称名としても使用されている。
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