蘇我系石川朝臣
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/03 06:10 UTC 版)
蘇我系石川氏は、飛鳥時代末期から奈良時代に、その血を引いた天皇(持統天皇と元明天皇)を輩出した(それぞれ石川麻呂の娘、遠智娘と姪娘が母)。 また、天武天皇の皇子の高市皇子には天智天皇と蘇我倉山田石川麻呂の娘・姪娘との間に生まれた御名部皇女が、草壁皇子には御名部皇女の同母弟・阿閇皇女が、大津皇子には天智と赤兄の女・常陸娘の間に生まれた山辺皇女が后妃として入っている。支配者層における父兄出自の原理が確立していなかった当時にあって、母親の出身の系統がその子の地位に与える影響は大きかったため、天武は、来たるべき律令国家の権力中枢部分を、天皇家と蘇我氏との結合体によって占めさせようとしていた。これほどまでに蘇我氏の血を引く女性が重視されたのは、蘇我倉山田石川麻呂以来の官人としての実績よりも、大化以前における唯一の大臣(マヘツキミ)家であったという尊貴性が未だ根強く残存していたからであり、天武は自己の子孫の正統性の根拠の一つとして、蘇我氏の伝統を選んだと考えられる。 さらに、文武天皇は、石川刀子娘(蘇我安麻呂の姪か)を妃(嬪か)とした。当時、石川氏にはそれほど高い地位の官人は存在しなかったことを考えると、6世紀以降天皇家と婚姻関係を結んできた蘇我氏の伝統が律令制成立後も生き続けたものと考えられる。刀子娘の入内によって、石川氏は天皇家の外戚氏族としての地位を保持し続けたことになる。 加えて、藤原不比等も蘇我連子の娘・蘇我娼子を嫡妻として迎えた。これによって不比等は、大臣家である蘇我氏の尊貴性を自己の子孫の中に取り入れることができ、藤原氏は氏として成立したばかりであるにも関わらず、蘇我氏の地位を受け継ぐ氏であることを支配者層に示すことができた。 しかしながら、蘇我赤兄の外孫にあたる山辺皇女が、持統天皇に排除された夫の大津皇子に殉死したり、また文武天皇の嬪の石川刀子娘が、天皇崩御後に某男との関係を持った事からその身分を剥奪される事件なども起こしている。刀子娘の子には広成(広世という別名、あるいはもう1人の息子)があり、母に連座して両皇子の皇族の身分を奪われたという。当時、持統天皇・藤原不比等が望んだ文武天皇・首皇子への皇位継承路線と、蘇我系皇族(氷高内親王や吉備内親王、長屋王、長屋王の皇子達)への皇位継承を模索する路線との間に、微妙な雰囲気が生じていた。蘇我氏(石川氏)は天皇家の母方氏族として、また大化以前における唯一の大臣(オホマヘツキミ)家として、その尊貴性を認められており、その認識は律令制が成立してもなおその認識は旧守的な氏族層や皇親の間に残存していた可能性が高く、皇女所生の文武皇子が存在しないならば、藤原氏の産んだ皇子と、石川氏の産んだ皇子とのいずれかを皇嗣としなければならない場合、必ずしも藤原宮子所生の首皇子を推すものばかりではなかったと考えられる。そのため、広成が皇籍を剥奪されたのは、異母兄弟の首皇子(後の聖武天皇)の競争相手を排除しようとしての藤原不比等・橘三千代夫婦の陰謀とされ、この出来事は蘇我氏から藤原氏への、王権のミウチ氏族の主役の交代を象徴していることになる。 また万葉集によれば、同じ赤兄の外孫である穂積皇子も但馬皇女との密通が露見して左遷された。穂積皇子は、幸いにも持統天皇崩御後に知太政官事に出世したが、若くして亡くなった。奈良時代前半の石川氏は官界でも振るわず、石川石足が長屋王の変の際に臨時で参議となったほかは、議政官を出すことはなかった。 律令制成立期における蘇我系同族の官人は、石川氏の他に、八色の姓で朝臣姓を賜った桜井氏、田中氏(田中鍛師と田中法麻呂)、小治田氏(小墾田麻呂と小治田当麻)、河辺氏(河辺百枝と河辺子首)、岸田氏、高向氏、久米氏がいたと考えられるが、桜井氏、岸田氏、高向氏、久米氏の官人は史料に現れない。なお、箭口氏(八口音橿)、田口氏、御炊氏も後の史料で朝臣姓として見える。 ところで、長屋王の祖母は蘇我姪娘であり、自身の配偶者には同じく蘇我姪娘を祖母に持つ吉備内親王と、石川虫麻呂の娘の石川夫人、藤原不比等の娘の藤原長娥子がいた。つまり長屋王家は、長屋王自身や吉備内親王の即位の可能性のみならず、将来何らかの事情で皇位継承者が首皇子から他の皇統に移動した場合、蘇我系皇族腹、蘇我氏腹、藤原氏腹という考えうる3通りの選択肢を全て備えており、まさに次期皇位継承者としてふさわしく、不比等亡き後の藤原氏の恐怖と猜疑の対象となっていた。長屋王一家が自死を迫られた際に葬られたのが、長娥子所生の皇子以外であったのは、藤原氏の野望を阻む対手がこれらに限られたためである。以来、石川氏は天皇や皇族と婚姻関係を持つことはなく、6世紀以降の伝統は完全に藤原氏に移行し、文武・元明・長屋王・吉備内親王・元正の死によって、蘇我氏の血を引く皇族は断絶した。 天平勝宝4年(749年)、石川年足は藤原仲麻呂の引き立てにより紫微大弼に抜擢され、最終的には御史太夫(大納言)まで昇った。年足の没後には弟の石川豊成が参議となり、その後中納言まで昇進している。藤原仲麻呂の乱では一部の蘇我氏族が失脚・処刑されたものの、年足の子石川名足は宝亀11年(780年)に参議となり、中納言まで昇進した。延暦7年(790年)には石川真守が参議となった。いずれも大弁を兼ねたまま高齢での就任であり、実務官僚としての経歴が認められたものであった。しかし高齢の参議では子孫が蔭位の恩恵を受けることはできず、以降は公卿となるものは出なかった。
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