成立期
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/01/03 23:17 UTC 版)
いわゆる「曾我もの」の一つとして演じられていた時代の主な上演演目: 『花館愛護櫻』(はなやかた あいごの さくら) 上演:正徳3年 (1713)、山村座 助六:二代目市川團十郎 詞章:半太夫節(江戸半太夫) 備考:これが江戸での初演。今日のものよりも荒事の味がもっと強かったという。これを契機に二代目團十郎は曾我兄弟崇拝を始める。 『式例和曾我』(しきれい やわらぎ そが) 上演:正徳6年 (1716)、中村座 助六:二代目團十郎 詞章:半太夫節(江戸吉太夫) 備考:この作品で『助六』は当時江戸で大人気だった「曾我もの」の中に取り込まれ、以後はこれが踏襲される。「花戸川助六実ハ曾我五郎時致」という設定もこのときから。詞章の江戸吉大夫は江戸半太夫の高弟である。 『英分身曾我』(はなぶさ ぶんしん そが) 上演:享保18年 (1733)、市村座 助六:四代目市村竹之丞 詞章:河東節(十寸見河東) 備考:この上演から河東節を使うようになり、このときの「出端の唄」の曲名が「所縁江戸櫻」(ゆかりの えどざくら)だった。この唄はこれ以後、四代目市村竹之丞改め八代目市村羽左衛門が座元として所有するこの市村座で助六を演じるときのみにしか使われないようになる。これが歴代の市村羽左衛門にも継承され、河東節「所縁江戸櫻」は70年以上にわたって羽左衛門占有の曲となった。(なお現在は「所縁」を「由縁」と書く。) 『初鬙通曾我』(はつもとゆい とおし そが) 上演:元文4年 (1739) 市村座 助六:三代目市川團十郎 詞章:長唄(松島庄五郎) 備考:團十郎の助六で長唄を使った珍しい例。 『聞昔曾我物語』(むかしに きく そが ものがたり) 上演:延享3年 (1746)、市村座 助六:初代尾上菊五郎 詞章:豊後節(宮古路文字太夫) 『男文字曾我物語』(おとこもじ そが ものがたり) 上演:寛延2年 (1749)、中村座 助六:二代目市川海老蔵(二代目團十郎) 詞章:河東節(十寸見河東)。 備考:「人間五十年」の時代、不惑の歳を迎えた役者は隠居するのが常だったが、この年61歳になった二代目海老蔵(二代目團十郎)は33年ぶりに若衆の助六を演じた。この興行で衣装の拵えが「二重の小袖に紅裏、浅葱無垢の下着を一つ前、紫縮緬の鉢巻、腰に一つ印籠と鮫鞘」という、ほぼ現在のかたちに整う。これは二代目と親交のあった蔵前の札差・大口屋暁雨の出で立ちをモデルにしたもの、という噂がこの頃から広まる。 『江戸紫根元曾我』(えどむらさき こんげん そが) 上演:宝暦11年 (1761)、市村座 助六:市村亀蔵 詞章:河東節(十寸見河東) 備考:この頃までに江戸では「花戸川助六は大口屋暁雨」という構図が定説になっていた。助六の鉢巻きが大口屋が好んだという江戸紫に染め直されたのも本作から。なおこのとき市村座座元の市村亀蔵(後の九代目羽左衛門)が河東節「所縁江戸櫻」を使ったのを最後に、以後はこれがもっぱら歴代の市川團十郎によって使われるようになる。 『重重歌曾我』(かさねがさね うたの そが) 上演:天明5年 (1785)、桐座 助六:五変化舞踊『春昔由縁英』(はるはむかしゆかりのはなぶさ)のひとつ。女助六(女伊達)を含めた五役の所作事を三代目瀬川菊之丞が務めた。 備考:これがいわゆる「女伊達もの」の嚆矢。 『御江戸花賑曾我』(おえどの はなにぎわい そが) 上演:文化2年 (1806)、河原崎座 助六:初代市川男女蔵 詞章:河東節(十寸見河東) 備考:助六を市村羽左衛門と市川團十郎以外の役者が演じた舞台で河東節「所縁江戸櫻」が使われた唯一の例。六代目市川團十郎七回忌追善興行の演目として上演されたため。
※この「成立期」の解説は、「助六」の解説の一部です。
「成立期」を含む「助六」の記事については、「助六」の概要を参照ください。
成立期
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/05 04:45 UTC 版)
大宝律令による大学寮設立時から存在した学科である。同時代の算道家として皇太子・首皇子(のちの聖武天皇)の教育係の一員であった山口田主・私部石村・志斐三田次らがいる。 当初は明確な学科の種別はなかったが、一般の官人を育成するために設けられた本科に相当する儒教の講義(後の明経道にあたる)以外には、儒教経典の原典をそのまま筆記するための書道とそのまま発音するための音道は本科の補完するためのものであった。それに対して算道の扱う分野は儒教とは直接的な関連性はなく、計算や測量などの技術系官人の育成を行うことを目的としていたことから、唯一本科から独立した存在であったのが算道であった(ただし、後述のようにこうした通説に対する批判もある)。 大学寮には算道を教授する算博士(さんはかせ、従七位上相当・2名)と学生である算生(さんしょう、30名)で構成されていた。これは唐の国子監に置かれた算学と同数であり、教授として博士1名以外に助教2名及び複数名の直講が置かれて、学生も400名もいた本科と比べると小さいものの、唐の国子監の規模は日本の大学寮と比べて大きいこと、唐の算学博士は従九品下と低い地位に置かれたことを考えれば、設置当初の地位は一概に低いとは言えなかったとされている。その後、天平2年(730年)からは算博士候補者となる特別給費生として算得業生2名が算生の中から選抜された。また、天平宝字元年(757年)からは陰陽寮で暦道を学ぶ暦生の中から暦学に必要な数学を学ぶために算道を兼修する暦算生が別枠として設置された。ただし、近年においてこうした理解に対して批判もある。すなわち、実際に算博士の活動を示す記録が奈良時代において活動することが出来ず、算術関係の記録に登場するのは暦道出身者であることが指摘されている。更に天平宝字元年の暦算生の設置は藤原仲麻呂政権による算科の陰陽寮(太史局)暦科への統合であったとする説もあり、奈良時代段階では実際には暦博士が算道を教授していたとする見方もある。 大学寮の中には算道の講義と算生の寄宿のための施設である算道院(さんどういん)が置かれていた。平安京遷都後は、大学寮敷地内の明経道の施設である明経道院の南、明法道の施設である明法道院の北にあったとされている。なお、現存する算生に関する記録を見る限りでは、渡来人系の氏族に属する者が多かったとされている。
※この「成立期」の解説は、「算道」の解説の一部です。
「成立期」を含む「算道」の記事については、「算道」の概要を参照ください。
成立期
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/04/04 09:35 UTC 版)
「サウジアラビアの歴史」の記事における「成立期」の解説
サウジアラビアの歴史は、1744年に宗教改革者のムハンマド・ブン・アブドゥルワッハーブと、アラビア半島中央部の地方支配者のムハンマド・ブン・サウード(英語版)が協力して独立国を建てたときに始まる:83-102。以来、サウード家は150年間、オスマン帝国やエジプトとの対立、あるいはアラビア半島内の他の有力者たちとの対立に直面し、あるときはサウード家が有利な状況になったり、また別のときは対立者の方が有利な状況になったりした:83-102。 19世紀中ごろにサウード家はアラビアの支配権を失ったが、その数十年後にイブン・サウードのナサブで知られるアブドゥルアズィーズ(2世)・ブン・アブドゥッラフマーンが取り戻した:103-122。イブン・サウードはリヤドの町の支配権を1902年にラシード家(英語版)から取り返し、その後も各地での戦闘に勝利した:103-122。1926年1月8日にはヒジャーズ地方を手に入れ、1927年1月29日にはナジュド地方を手に入れた:103-122。イギリスは1927年5月20日にイブン・サウードをこれらの地方を統べる王としての主権を承認した。2018年現在のサウジアラビア王国を構成する各地域がアブドゥルアズィーズの下に統合されるのは1932年のことである。
※この「成立期」の解説は、「サウジアラビアの歴史」の解説の一部です。
「成立期」を含む「サウジアラビアの歴史」の記事については、「サウジアラビアの歴史」の概要を参照ください。
成立期
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/15 02:36 UTC 版)
毛利元就が実子である元春・隆景を吉川氏・小早川氏の当主にした当時の毛利氏は安芸の国人領主の盟主的な地位にあったものの、彼らを力づくで支配するだけの政治・軍事力は備わっておらず、吉川・小早川両氏と言えども毛利氏とは対等の立場の国人領主であった。毛利氏による安芸の完全支配が確立されていくのは、厳島の戦いで陶晴賢を倒し、大内氏を滅ぼした弘治年間に入って以後のことである。 弘治3年(1557年)、毛利元就が嫡男の毛利隆元に家督を譲る際に、吉川元春・小早川隆景が毛利氏の運営に参画して自分を補佐する事を条件として隆元は家督継承を承諾した。同年11月25日(1557年12月15日)に元就は隆元・元春・隆景の三子に対して有名な「元就教訓状」を出した。元就は毛利の家名を存続させることを第一として、他名(吉川・小早川)は当座のものである事、兄弟が協力して毛利家中を守り立てることを説いたのである。これが毛利宗家を中心として吉川・小早川両氏がこれを支える「毛利両川」体制の成立時期と考えられている。 以後、隆元を高齢の元就が後見し、元春・隆景がこれを補佐する体制で臨んだ毛利氏は尼子氏を制圧して山陽・山陰地方の大半を制圧し、隆元の早世、元就の病没後には隆元の遺児である輝元を毛利氏当主として押し立てることによって、山陰・山陽の覇者・毛利氏の基礎を築いていった。 なお、天正13年(1585年)7月21日に豊臣秀吉から小早川隆景に充てた書簡に「両川」という語が登場しており、当時から「両川」という語が存在していたのがわかる。
※この「成立期」の解説は、「毛利両川」の解説の一部です。
「成立期」を含む「毛利両川」の記事については、「毛利両川」の概要を参照ください。
成立期 (1914-1949)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/02/17 06:23 UTC 版)
「堆積学」の記事における「成立期 (1914-1949)」の解説
沈積と堆積の用語の双方が用いられる。現在の「堆積岩」は「沈殿岩」とも呼ばれていた。
※この「成立期 (1914-1949)」の解説は、「堆積学」の解説の一部です。
「成立期 (1914-1949)」を含む「堆積学」の記事については、「堆積学」の概要を参照ください。
成立期
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/02 22:55 UTC 版)
藤田勝也は2007年の「寝殿造と斎王邸跡」で、平城京から平安京までの、遺跡、あるいは文献で状況がおおよそ判別できるものの比較を行った。その結果東三条殿(画像030)のような寝殿造は徐々に出来上がっていったというよりも、10世紀中頃の藤原師輔の頃から急に広まった可能性を指摘する。
※この「成立期」の解説は、「寝殿造」の解説の一部です。
「成立期」を含む「寝殿造」の記事については、「寝殿造」の概要を参照ください。
成立期
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/21 09:16 UTC 版)
第二次世界大戦終了後の学校教育法(昭和22年法律第26号)などの施行に伴う学制改革により、就学前教育(幼稚園などにおける教育)・初等教育(小学校などにおける教育)・中等教育(中学校・高等学校などにおける教育)の教員養成は、アメリカ合衆国にならって大学が担うこととなった。このとき、既存の教員養成機関である日本全国の師範学校・青年師範学校も、改組により新制大学への転換を図った。この経緯は教員養成機関も参照のこと。 新制大学では、各学部での専門教育を行うための基礎としてリベラル・アーツ(学芸)としての一般教育科目をおくことになった。そのとき、旧制高等学校を母体とする文理学部などを置く大学では、旧制高等学校を母体とする学部が一般教育を行い、旧制高等学校を母体とする学部を置かない大学では旧師範学校の守備範囲の広さも手伝って、新設の学芸学部が一般教育を行った。こうして、「教師という鋳型にはめこむ機関」と後世批判された師範学校は学問領域のほぼ全分野をカバーする総合学部に生まれ変わった。なおこの経緯から新制国立大学の設置された1949年(昭和24年)当初、「学芸学部」を持つ国立大学と「教育学部」を持つ国立大学が並立した。なお、学芸学部においては、旧制高等学校を母体とする文理学部等が学内に存在しない替わりとして、学芸学部内に教職課程の履修を必須としないコースを設置しており、そのコースの入試競争倍率は高かった。 新制大学の成立期には、2級免許状が取得できる2年課程(前期課程)と1級免許状を取得できる4年課程(後期課程)が並存し、1950年代前半では両者の募集人数規模はほぼ同じであった。しかし2年課程は、入試競争倍率が低く多くの大学で定員割れが常態としていており、全国の義務教育教員の充足に伴い2年課程の就職率が悪化したこともあり、1955年から2年課程の縮小が始まり、1963年までに全廃され、4年課程が拡充された。
※この「成立期」の解説は、「教育学部」の解説の一部です。
「成立期」を含む「教育学部」の記事については、「教育学部」の概要を参照ください。
成立期
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/22 06:24 UTC 版)
9世紀末から10世紀初頭にかけての寛平・延喜期になると、抜本的な国政改革が展開した。調庸・封物を富豪層が京進することにより、院宮王臣家(皇族・有力貴族)は富豪層と結びつき、自らの収入たる封物の確保を図った。富豪層も自らの私営田を院宮王臣家へ寄進して荘園とし、国衙への納税回避を図っていった。かかる危機に直面した国衙行政と中央財政を再建させるために、院宮王臣家と富豪層の関係を断ち切るとともに、国司へ大幅な支配権限を委譲する改革が行われたのである。これにより成立した支配体制を王朝国家体制という。 王朝国家体制への移行により、富豪層による調庸・封物の京進は廃され、国司(受領)による租税進納が行われるようになった。その結果、調庸・封物京進を狙っていた群盗海賊は沈静化することとなった。また、受領への権限集中が行われ、国衙機構内部は受領直属部署(「所」という)を中心とするよう再編成された。郡司・富豪層は、土地耕作を経営し納税を請け負う田堵負名として国衙支配に組み込まれ、また、各「所」に配属されて在庁官人として国衙行政の一翼を担うようになった。 上記の国政改革と並行して、東国では寛平・延喜東国の乱が発生していた。これに対し、朝廷は追捕官符を国衙へ発給し、さらに各国へ国押領使を配置する対策をとった。追捕官符は発兵などの裁量権を受領に与えるものであり、受領は国内の田堵負名層を兵として動員するとともに、国押領使へ指揮権を与えて実際の追捕にあたらせた。このように、寛平・延喜東国の乱の鎮圧過程を通じて新たな国家軍制である国衙軍制が、まず東国において成立した。この軍制は、追捕官符を兵力動員の法的根拠とし、兵力動員権を得た受領から国押領使へ指揮権が委任され、国押領使が国内兵力を軍事編成して追捕活動にあたる、というシステムである。そして、同乱の鎮圧に勲功をあげた「寛平延喜勲功者」こそが最初期の武士であったと考えられている。彼らは、田堵負名として田地経営に経済基盤を置きながら、受領のもとで治安維持活動にも従事するという、それまでにない新たに登場した階層であった。 一方、西国では承平年間(930年代)に瀬戸内海で海賊行為が頻発し(「承平南海賊」)、936年(承平6)、追捕南海道使に任命された紀淑人とその配下の藤原純友らによる説得が功を奏し、海賊が投降した。海賊らの実態は富豪層であり、彼らは従前から衛府舎人の地位を得ていた。衛府舎人は大粮米徴収権の既得権を有していたが、朝廷は延喜年間(900年代)に相次いで衛府舎人の既得権を剥奪する政策を打ち出した。この延喜期の既得権剥奪によって経済基盤を失おうとしている瀬戸内沿岸の衛府舎人らは、自らの権益を主張し続けていたが、承平期に至ってついに海賊行為を展開することとなった。そして彼らを説得し、田堵負名として国衙支配に組み込んだ功労者が実は藤原純友であった。海賊鎮圧の過程で、純友を含め、瀬戸内海諸国には海賊対応のための警固使が設置された。この西国の警固使は東国の押領使・追捕使に該当する。追捕官符によって兵力動員権を得た受領のもと、警固使に任じられた者は国内の郡司・富豪層を軍事的に編成し、有事に際しては指揮権を行使した。ここに、西国においても東国と同様の国衙軍制が成立したのである。
※この「成立期」の解説は、「国衙軍制」の解説の一部です。
「成立期」を含む「国衙軍制」の記事については、「国衙軍制」の概要を参照ください。
- 成立期のページへのリンク