東三条殿
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東三条殿(ひがしさんじょうどの、とうさんじょうどの、とうさんじょうでん)は、平安時代に平安京左京3条3坊1町及び2町(二条大路南西洞院大路東)の南北2町に跨って建てられた邸宅。東三条院とも。現在の京都市中京区押小路通釜座西北角の付近にあたる。摂関家当主の邸宅の一つで、特に藤原兼家の主邸であったところから彼を「東三条殿」と号し、またその娘藤原詮子の里第であったところから、彼女は出家後に「東三条院」の院号を与えられて、初の女院となった(ただし、女院となってからは東三条殿に住んでいない)。後院や里内裏としても用いられ、特に11世紀後半からは摂関家の象徴的邸宅として重視され、保元の乱の舞台ともなった。また、太田静六によって寝殿造の代表例とされて以来、建築史の研究対象としても重視されている。
注釈
出典
- ^ 『日本紀略』仁和4年1月17日条。
- ^ 『日本紀略』。
- ^ 『日本紀略』安和2年8月13日条。
- ^ 『日本紀略』正暦2年4月2日条。
- ^ 『日本紀略』永観2年3月15日条等。
- ^ 『日本紀略』永観2年8月27日条等。
- ^ 『小右記』寛和1年2月20・21日条。
- ^ 『日本紀略』・『本朝世紀』正暦元年10月22日条。
- ^ 『日本紀略』 正暦1年12月3・13日条、正暦2年6月15日条・7月27日条等。
- ^ 『院号定部類記』、『日本紀略』・『小右記』・『権記』正暦3年4月27日条・正暦4年1月3日条、『権記』長徳4年10月29日条等。
- ^ 『日本紀略』 ・『権記』正暦4年3月30日条。
- ^ 『日本紀略』・『小右記』長徳1年1月9日条。
- ^ 『日本紀略』・『小右記』長徳1年4月6・11日条等。
- ^ 高群逸枝「藤原兼家」『平安鎌倉室町家族の研究』による。
- ^ 『権記』長保2年12月2日条。
- ^ 『権記』長徳4年10月29日条等。
- ^ 『小右記』長元2年9月13・18日条。
- ^ 『中外抄』上、第16・49話。
- ^ a b c d 川本重雄『寝殿造の空間と儀式』中央公論美術出版、2005年。
- ^ 『兵範記』による。
東三条殿(ひがしさんじょうでん)
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「少年陰陽師の関連語句」の記事における「東三条殿(ひがしさんじょうでん)」の解説
藤原道長の本邸にして、彰子の生家。彰子が東三条殿にいた頃は、彰子のいた東北対屋を中心に晴明が何重にも織り成した結界に守られていた。また、西対屋には彰子の弟である鶴が住んでいる。
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