摂関家の内紛から廃絶までとは? わかりやすく解説

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摂関家の内紛から廃絶まで

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/10/20 15:13 UTC 版)

東三条殿」の記事における「摂関家の内紛から廃絶まで」の解説

康治2年1143年)、忠通に男子基実が生まれたことにより、摂関家継承をめぐり、忠実・頼長と忠通の間に対立生じたこの頃から、忠通は前年修造した近衛殿大規模儀式にも利用するようになった。 忠通・頼長の不仲次第深刻化し、特にそれぞれの養女近衛天皇への入内・立后巡って鋭く対立したが、東三条殿もその舞台一つとなっている。まず、久安5年1149年12月末から1ヶ月間、東三条殿近衛天皇元服のためにその里内裏となった背景には、近衛天皇が忠通娘の藤原聖子准母としていたことがある。年があけた1月引き続き東三条殿内裏としていた近衛天皇のもとに、頼長の養女藤原多子入内し、3月高陽院皇后冊立された。これに対し4月には、忠通の養女藤原呈子東三条第から近衛天皇のもとに入内し、6月東三条殿中宮冊立された。 頼長を寵愛し従来取り決め通り、忠通から頼長への藤氏長者継承求め忠実は、同年9月源為義武士引き連れて関白忠通が滞在する東三条殿乗り込み、忠通を勘当し藤氏長者東三条殿朱器台盤等を没収して、頼長に与えたその後東三条殿は頼長家の重要儀式の場となったその後も忠通と頼長の対立解消せず、保元元年1156年7月2日抑えとなっていた鳥羽法皇崩御すると、事態急展開した。『保元物語』によれば東三条殿には頼長と結ぶ崇徳上皇方の軍勢集結し謀反計画したという。7月8日、頼長の宇治滞在中に後白河天皇の軍が東三条殿接収した。これをきっかけに、後白河天皇・忠通側と崇徳上皇・頼長側による保元の乱勃発し3日後には天皇藤原忠通以下、天皇側の文武百官がここに立て籠もった。この乱で勝利した天皇は忠通に東三条殿返還した。 乱の翌年、忠通は東三条殿修理行ない7月から1月ほど後白河天皇里内裏として利用した後、忠通娘の藤原聖子皇嘉門院)に譲られた。里内裏とした際には、寝殿紫宸殿、東対を清涼殿充てて、遣水の上にある御車寄廊を常御所として用いたことが、『兵範記』に記録されている。その後二条天皇一時期里内裏として利用したその後皇嘉門院から忠通嫡男近衛基実近衛家 始祖)に譲られたが、仁安元年1166年7月に基実が早逝すると、その室平盛子が伝領した10月には平滋子所生皇太子憲仁親王(後の高倉天皇)の立太子の儀が行なわれ、そのままその御所となったが、同年12月末、憲仁親王着袴の儀が行なわれた2日後火災焼失した以後再建されずに荒廃し、しばしば里内裏となった閑院面する東三条となった

※この「摂関家の内紛から廃絶まで」の解説は、「東三条殿」の解説の一部です。
「摂関家の内紛から廃絶まで」を含む「東三条殿」の記事については、「東三条殿」の概要を参照ください。

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