摂関家の内紛から廃絶まで
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「東三条殿」の記事における「摂関家の内紛から廃絶まで」の解説
康治2年(1143年)、忠通に男子基実が生まれたことにより、摂関家の継承をめぐり、忠実・頼長と忠通の間に対立が生じた。この頃から、忠通は前年に修造した近衛殿も大規模儀式にも利用するようになった。 忠通・頼長の不仲は次第に深刻化し、特にそれぞれの養女の近衛天皇への入内・立后を巡って鋭く対立したが、東三条殿もその舞台の一つとなっている。まず、久安5年(1149年)12月末から1ヶ月間、東三条殿は近衛天皇の元服のためにその里内裏となった。背景には、近衛天皇が忠通娘の藤原聖子を准母としていたことがある。年があけた1月、引き続き東三条殿を内裏としていた近衛天皇のもとに、頼長の養女藤原多子が入内し、3月に高陽院で皇后に冊立された。これに対し、4月には、忠通の養女藤原呈子が東三条第から近衛天皇のもとに入内し、6月に東三条殿で中宮に冊立された。 頼長を寵愛し、従来の取り決め通り、忠通から頼長への藤氏長者継承を求める忠実は、同年9月、源為義ら武士を引き連れて、関白忠通が滞在する東三条殿に乗り込み、忠通を勘当し、藤氏長者と東三条殿、朱器台盤等を没収して、頼長に与えた。その後、東三条殿は頼長家の重要儀式の場となった。 その後も忠通と頼長の対立は解消せず、保元元年(1156年)7月2日、抑えとなっていた鳥羽法皇が崩御すると、事態は急展開した。『保元物語』によれば、東三条殿には頼長と結ぶ崇徳上皇方の軍勢が集結し、謀反を計画したという。7月8日、頼長の宇治滞在中に、後白河天皇の軍が東三条殿を接収した。これをきっかけに、後白河天皇・忠通側と崇徳上皇・頼長側による保元の乱が勃発し、3日後には天皇と藤原忠通以下、天皇側の文武百官がここに立て籠もった。この乱で勝利した天皇は忠通に東三条殿を返還した。 乱の翌年、忠通は東三条殿の修理を行ない、7月から1月ほど後白河天皇が里内裏として利用した後、忠通娘の藤原聖子(皇嘉門院)に譲られた。里内裏とした際には、寝殿を紫宸殿、東対を清涼殿に充てて、遣水の上にある御車寄廊を常御所として用いたことが、『兵範記』に記録されている。その後、二条天皇も一時期里内裏として利用した。 その後、皇嘉門院から忠通嫡男の近衛基実(近衛家 始祖)に譲られたが、仁安元年(1166年)7月に基実が早逝すると、その室平盛子が伝領した。10月には平滋子所生の皇太子憲仁親王(後の高倉天皇)の立太子の儀が行なわれ、そのままその御所となったが、同年12月末、憲仁親王の着袴の儀が行なわれた2日後に火災で焼失した。以後は再建されずに荒廃し、しばしば里内裏となった閑院に面する「東三条の森」となった。
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