摂関家の凋落とは? わかりやすく解説

摂関家の凋落

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/10 05:36 UTC 版)

保元の乱」の記事における「摂関家の凋落」の解説

この乱で最大打撃を蒙ったのは摂関家だった。忠通は関白地位こそ保持したものの、その代償あまりにも大きかった武士悪僧預所改易荘園管理のための武力組織解体され、頼長領の没官氏長者宣旨による任命など、所領人事について天皇決定権握られることになり、自立性失った摂関家勢力大幅に後退する。 忠通は保元3年1158年4月藤原信頼との騒擾事件では一方的に責めを負わされ閉門処分となり、同年8月後白河天皇から守仁親王二条天皇)への譲位についても全く関与しないなど、周囲から軽んじられ政治中枢から外れていった。 乱後主導権握ったのは信西であり、保元新制発布し国政改革着手し大内裏再建実現するなど政務辣腕振るった信西の子息もそれぞれ弁官大国受領抜擢されるが、信西一門急速な台頭旧来の院近臣貴族反感を買い、やがて広範な信西派が形成されることになる。さらに院近臣後白河上皇支持する集団後白河院政派)と二条天皇支持する集団二条親政派)に分裂し朝廷内は三つ巴対立様相を呈するようになった。この対立平治元年1159年)に頂点達し再度政変武力衝突勃発することになる(平治の乱)。

※この「摂関家の凋落」の解説は、「保元の乱」の解説の一部です。
「摂関家の凋落」を含む「保元の乱」の記事については、「保元の乱」の概要を参照ください。

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