摂関家の内紛とは? わかりやすく解説

摂関家の内紛

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/10 05:36 UTC 版)

保元の乱」の記事における「摂関家の内紛」の解説

白河院政下で不遇であった摂関家は、鳥羽院政が開始される藤原忠実の女・泰子高陽院)が鳥羽上皇の妃となり息を吹き返した。関白藤原忠通後継者恵まれなかったため、異母弟の頼長を養子迎えた。しかし康治2年1143年)に基実が生まれると、忠通は摂関地位を自らの子孫に継承させよう望み忠実・頼長と対立することになった久安6年1150年正月4日近衛天皇元服の式を挙げると、同月10日には頼長の養女多子入内19日女御となった。しかし2月になると忠通も藤原伊通の女で大叔母にあたる美福門院養女となっていた呈子改め自身養女として迎えたうえで、鳥羽法皇に「立后できるのは摂関女子に限る」と奏上呈子入内示唆した劣勢の忠通は美福門院連携することで摂関地位保持図ったのである当の鳥羽法皇はこの問題深入りすることを避け多子皇后呈子中宮とすることで事を収めようとしたが、忠実・頼長と忠通の対立はもはや修復不能な段階入っていた。同年9月一連の忠通の所業を腹に据えかねた忠実は、大殿権限藤氏長者家伝宝物である朱器台盤摂家正邸の東三条殿もろとも接収すると、忠通の藤氏長者剥奪してこれを頼長に与えたばかりか、忠通を義絶するという挙に出る。しかし鳥羽法皇今回もどちらつかずの曖昧な態度終始し、忠通を関白留任させる一方で、頼長には内覧の宣旨下した。ここに関白内覧並立する前代未聞椿事出来することになった

※この「摂関家の内紛」の解説は、「保元の乱」の解説の一部です。
「摂関家の内紛」を含む「保元の乱」の記事については、「保元の乱」の概要を参照ください。

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