公卿の参集
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/01/04 01:19 UTC 版)
物語では9日の段階から公卿たちが内裏に集まり始め、頼長も崇徳上皇が白河北殿に入る前に上皇と合流したように書かれている。『愚管抄』もこれとほぼ同様で忠通が内大臣徳大寺実能らを率いて内裏に入ったように記されている。ところが、『兵範記』では頼長が上皇と合流したのは10日の晩頭(夜7時)頃で、忠通が息子基実を連れて内裏に入ったのも同じ頃としている。しかも、開戦後に後白河天皇が東三条殿に移ることになっても、内裏には近衛中将をはじめとする公卿が誰も居なかったために基実が近衛中将を代理して剣璽を天皇の輿まで運んだと記しているのである(『兵範記』著者である平信範は忠通の命令で東三条殿で天皇を迎える準備をしていた)。徳大寺実能が急を聞きつけて東三条殿に駆けつけたのは更にその後であったという。つまり、公卿で乱に関わっていたと言えるのは忠通・頼長・基実の摂関家3名以外には藤原教長のみであったことになる。 これについて河内祥輔は公卿の多くはこの争いは本来摂関家の内紛で自ら積極的に関与する性質のものではなかったこと、鳥羽法皇の葬儀が全て終わっていない段階であったことから、戦いが始まって事態の深刻さに気づくまでは関わり合いを避けようとしていたとする。更に崇徳上皇が軍事的機能が全く備わっていない白河北殿に入った真意は白河・鳥羽両法皇が院政を行った白河北殿に入って院政を行う意思表示を示すことで後白河天皇側の東三条殿占拠に政治的に対抗することが目的であり、またこうした振舞いをする後白河に見切りをつけた公卿たちが白河北殿に集まれば、後白河天皇に対して政治的優位に立つことが可能であると判断したとする見方を採る。この考えに従えば、崇徳上皇側は長期の持久戦による政治的な勝利を意図しており、為朝(為義)の献策が却下されたのは、崇徳上皇や頼長が最初から軍事作戦を考えていなかったからであるという解釈を成立させることも可能となる。
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