公卿昇進
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同年2月末に行成は敦康親王家の別当に任ぜられるが、前年末に生母・藤原定子が崩御していたため、中宮・藤原彰子をその母親代わりとするよう、後漢の明帝が賈貴人所生の粛宗を馬皇后に養育させた故事を引き合いに出して一条天皇に対して奏上する。これは敦康親王に後ろ盾を求める一条天皇と、娘の中宮・藤原彰子が未だ皇子誕生を見ない藤原道長の利害を一致させる献策で、8月には初めて敦康親王が中宮の上御局に渡り、彰子による養育が始まっている。また、同月には蔵人頭の労6年にして参議に任ぜられ、遂に公卿に列している。9月に入って初めて参議として参内すると、一条天皇から召されて「顧問の職(蔵人頭)を避くと雖も、なお聞き得たる所を奏すべし」との勅があり、10月に入ると侍従を兼帯するなど、一条天皇が行成を側近から離したくない様子が窺われる。なお、後任の蔵人頭はかつて行成を推挙した俊賢の弟である左近衛中将・源経房であった。 同年10月東三条院の四十御賀に伴う院司に対する叙位で従三位に、長保5年(1003年)11月には新造内裏の諸殿舎額を書いた功労で正三位に昇叙されている。寛弘2年(1005年)行成は左大弁として弁官の上首となるが、この頃より左大臣・藤原道長邸での私的な催しへ頻繁に参加するようになり、同じく道長邸に頻繁に訪問していた権中納言・藤原斉信らとともに道長への忠勤ぶりを藤原実資から「恪勤上達部」として批判されている。行成の道長邸への頻繁な訪問は蔵人頭時代も同様であったが、当時は一条天皇と内覧の左大臣であった道長との間で連絡や調整を行う立場上当然であり、厚い信任を受ける一条天皇の権威を背景として、道長にも一目置かれる存在であった。しかし、参議昇任によって天皇側近の立場を離れて末座の公卿となった行成は、太政官の筆頭である道長の権勢をまともに受け、迎合の必要性を身近に感じて積極的に道長に接近するようになったと考えられる。 同年11月に内裏が焼亡し、行成は源俊賢らとともに造宮行事を担当する。寛弘3年(1006年)末にかけて造宮は完了し、寛弘4年(1007年)正月の叙位において、行成は造宮行事を賞されて従二位に昇叙される。行成はこの昇叙により、位階の上では中納言の藤原時光、権中納言の源俊賢・藤原忠輔、先任参議の藤原懐平・菅原輔正を越えて、当時まで極めて希であった二位の参議となる。行成のこの栄進が人々の目を引いたと思われる一方で、かつて自らを推挙してくれた恩人の源俊賢は賞を弟の経房に譲って正三位に留まっており、行成自身はこの昇進に心苦しさも感じていたことが想定される。 寛弘5年(1008年)9月に中宮・藤原彰子を母とする一条天皇の第二皇子・敦成親王(後一条天皇)が生まれる。さらに、翌寛弘6年(1009年)2月には中宮と敦成親王および道長に対する呪詛事件が発生し、敦康親王の外戚であった藤原伊周・源方理・高階光子が処罰を受ける。この事件は、皇位継承の最短距離にある第一皇子・敦康親王にダメージを与えるために仕組まれたとも考えられ、敦康親王家別当であった行成にも多くの悩みを残したと想定される。寛弘6年(1009年)先任参議の藤原有国を超えて権中納言に任ぜられ、長徳2年(996年)以来13年間務めた弁官の官職から離れている。 寛弘8年(1011年)5月下旬に俄に重病となり譲位を決意した一条天皇から、第一皇子・敦康親王の立太子の可否について諮問を受ける。これに対して行成は以下理由を挙げて、春宮には第二皇子・敦成親王を立て、敦康親王には年官・年爵・年給の受領の吏等を与え、有能な廷臣を仕えさせるなど、然るべき待遇を与えるように進言した。 文徳天皇は愛姫紀静子所生の第一皇子(惟喬親王)を寵愛し、皇統を継がせる意志があった。しかし、外祖父の藤原良房が朝廷の重臣であったため、第四皇子(清和天皇)が皇嗣となった。 左大臣(藤原道長)は一条朝の重臣かつ外戚であり、外孫たる第二皇子(敦成親王)を春宮に立てることを欲すことは至極当然のことである。天皇が第一皇子(敦康親王)を東宮に立てることを欲しても、左大臣は簡単に承知しない。政変の発生や不満・批判が巻き起こる可能性も考える必要がある。 光孝天皇は皇運があったため、老年になってから遂に天皇として即位した。一方で、恒貞親王は皇太子に立てられたが、即位することはなく終に棄て置かれた。これほどの大事は宗廟社稷の神に任せるべきで、敢へて人力の及ぶ所ではない。 また、第一皇子(敦康親王)の生母である皇后・藤原定子の外戚である高階氏は、伊勢斎宮・恬子内親王と在原業平の不義密通の子の後裔であるため、この一族は伊勢神宮に憚りがある。 この進言は極めて冷静に大勢を見据えた論であり、再び大義名分として神意を強調した内容となっている。また、結果的に道長の意向に沿っているものの、道長へ迎合や、奉仕していた敦康親王への忠誠心の否定はあたらないと考えられる。さらには、彰子立后の時と同様に、必然性を理解しながらなおも懊悩する一条天皇の代弁と見做すこともできる。また、道長に迎合する目的ならば光孝天皇の話をあげて将来の即位の可能性を話をする必要はなく、幼くして祖父や父を失って苦労した行成が後見のない親王の将来を慮って行った「経験的に体得した現実主義的哲学に基づく親身な忠告」とする評価もある。なお、以前から行成は敦成親王に対して王者の相を認めていたらしい。ところで、彰子立后の際は道長から手放しで感謝を示されたが、今回の行成の進言が道長の耳に届いていたかどうかは明らかでない。 6月に臨時の叙位があり、寛弘3年(1006年)の造宮において殿舎や門の額を書いた賞として行成は正二位への加階を申請する。この造宮に関して、既に行事賞として寛弘4年(1007年)に多くの先任者を越えて従二位への破格の昇進を果たしており、一条天皇の譲位を前にした駆け込み的な申請であった。この申請に対して一条天皇は許諾の意向を見せるが、道長を含む3大臣が正二位に留まっていたこともあって道長の承諾が得られず、行成の昇叙は実現できなかった。同月半ばには一条天皇から三条天皇への譲位が行われ、まもなく一条上皇は崩御する。行成は上皇の院司ではなかったが、側近の臣として道長の指示を受けて葬儀や法事に参与した。
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