公卿昇進とは? わかりやすく解説

公卿昇進

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/12 05:31 UTC 版)

藤原行成」の記事における「公卿昇進」の解説

同年2月末に行成敦康親王家の別当に任ぜられるが、前年末に生母藤原定子崩御していたため、中宮藤原彰子をその母親代わりとするよう、後漢明帝が賈貴人所生粛宗馬皇后養育させた故事引き合い出して一条天皇に対して奏上する。これは敦康親王後ろ盾求め一条天皇と、娘の中宮藤原彰子未だ皇子誕生見ない藤原道長利害一致させる献策で、8月には初め敦康親王中宮の上御局渡り彰子による養育始まっている。また、同月には蔵人頭の労6年にして参議に任ぜられ、遂に公卿列している。9月入って初め参議として参内すると、一条天皇から召されて顧問の職(蔵人頭)を避くと雖も、なお聞き得た所を奏すべし」との勅があり、10月に入ると侍従兼帯するなど、一条天皇が行成を側近から離したくない様子窺われる。なお、後任蔵人頭はかつて行成推挙した俊賢の弟である左近衛中将源経房であった同年10月東三条院四十御賀に伴う院司対す叙位従三位に、長保5年1003年11月には新造内裏の諸殿舎額を書いた功労正三位昇叙されている。寛弘2年1005年行成左大弁として弁官の上首となるが、この頃より左大臣藤原道長邸での私的な催し頻繁に参加するようになり、同じく道長邸に頻繁に訪問していた権中納言藤原斉信とともに道長への忠勤ぶりを藤原実資から「恪勤上達部」として批判されている。行成道長邸への頻繁な訪問蔵人頭時代も同様であったが、当時一条天皇内覧左大臣であった道長との間で連絡調整を行う立場上当然であり、厚い信任を受ける一条天皇権威背景として、道長にも一目置かれる存在であった。しかし、参議昇任によって天皇側近立場離れて末座公卿となった行成は、太政官筆頭である道長権勢まともに受け、迎合必要性身近に感じて積極的に道長接近するようになった考えられる同年11月内裏焼亡し、行成源俊賢とともに造宮行事担当する寛弘3年1006年)末にかけて造宮完了し寛弘4年1007年正月叙位において、行成造宮行事賞され従二位昇叙される。行成はこの昇叙により、位階の上では中納言藤原時光権中納言源俊賢藤原忠輔先任参議藤原懐平菅原輔正越えて当時まで極めてであった二位参議となる。行成のこの栄進人々目を引いた思われる一方で、かつて自らを推挙してくれた恩人源俊賢は賞を弟の経房に譲って正三位に留まっており、行成自身はこの昇進に心苦しさ感じていたことが想定される寛弘5年1008年9月中宮藤原彰子を母とする一条天皇第二皇子敦成親王後一条天皇)が生まれる。さらに、翌寛弘6年1009年2月には中宮敦成親王および道長対す呪詛事件発生し敦康親王外戚であった藤原伊周源方理高階光子処罰を受ける。この事件は、皇位継承最短距離にある第一皇子敦康親王ダメージ与えるために仕組まれたとも考えられ敦康親王別当であった行成にも多く悩み残した想定される寛弘6年1009年先任参議藤原有国超えて権中納言に任ぜられ、長徳2年996年以来13年務めた弁官官職から離れている。 寛弘8年1011年5月下旬俄に重病となり譲位決意した一条天皇から、第一皇子敦康親王立太子可否について諮問を受ける。これに対して行成は以下理由挙げて春宮には第二皇子敦成親王立て敦康親王には年官年爵年給受領の吏等を与え有能な廷臣仕えさせるなど、然るべき待遇与えるように進言した。 文徳天皇愛姫紀静子所生第一皇子惟喬親王)を寵愛し皇統継がせる意志があった。しかし、外祖父藤原良房朝廷重臣であったため、第四皇子清和天皇)が皇嗣となった左大臣藤原道長)は一条朝の重臣かつ外戚であり、外孫たる第二皇子敦成親王)を春宮立てることを欲すことは至極当然のことである。天皇第一皇子敦康親王)を東宮立てることを欲しても、左大臣簡単に承知しない政変発生や不満・批判巻き起こる可能性考え必要がある光孝天皇皇運があったため、老年になってから遂に天皇として即位した一方で恒貞親王皇太子立てられたが、即位することはなく終に棄て置かれた。これほどの大事は宗廟社稷の神に任せるべきで、敢へて人力の及ぶ所ではない。 また、第一皇子敦康親王)の生母である皇后藤原定子外戚である高階氏は、伊勢斎宮恬子内親王在原業平不義密通の子後裔であるため、この一族伊勢神宮憚りがある。 この進言極めて冷静に大勢見据えた論であり、再び大義名分として神意強調した内容となっている。また、結果的に道長意向沿っているものの、道長迎合や、奉仕していた敦康親王への忠誠心否定あたらない考えられるさらには彰子立后の時と同様に必然性理解しながらなおも懊悩する一条天皇代弁見做すともできるまた、道長迎合する目的ならば光孝天皇の話をあげて将来即位可能性を話をする必要はなく、幼くして祖父や父を失って苦労した行成後見のない親王将来慮って行った経験的に体得し現実主義的哲学に基づく親身な忠告」とする評価もある。なお、以前ら行成は敦成親王に対して王者の相を認めてたらしい。ところで、彰子立后の際は道長から手放し感謝示されたが、今回行成進言道長の耳に届いてたかどうかは明らかでない6月臨時叙位があり、寛弘3年1006年)の造宮において殿舎や門の額を書いた賞として行成正二位への加階申請する。この造宮に関して、既に行事賞として寛弘4年1007年)に多く先任者を越えて従二位への破格昇進果たしており、一条天皇譲位前にした駆け込み的な申請であった。この申請に対して一条天皇許諾意向見せるが、道長を含む3大臣正二位に留まっていたこともあって道長承諾得られず、行成昇叙実現できなかった。同月半ばには一条天皇から三条天皇への譲位が行われ、まもなく一条上皇崩御する行成上皇院司ではなかったが、側近の臣として道長指示受けて葬儀法事参与した

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