公卿昇進と大宰府赴任
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/13 07:37 UTC 版)
永万元年(1165年)に二条天皇が、永万2年(1166年)に摂政・近衛基実が相次いで崩御・薨去したことにより、二条親政派は瓦解して後白河院政派が息を吹き返した。頼盛は7月に大宰大弐となり、仁安と改元された8月27日には従三位に叙せられて、平氏で3人目の公卿となった。この同じ日には藤原成親が参議となり、藤原成範が従三位に叙せられるなど、院近臣の躍進が目立った。頼盛の叙位も、後白河院近臣としての活動が評価されたものと推測される。 自らの政治力強化を目指す後白河院は、清盛の協力により憲仁親王(後の高倉天皇)の立太子を実現させた。10月10日、立太子の儀式が公卿や平氏一門の出席のもと盛大に執り行われ、清盛は春宮大夫に任じられる。頼盛は大宰大弐として現地に赴任していたため、この式典には欠席している。大宰府の長官は現地に赴任しないのが当時の慣例になっていて、日宋貿易を直接掌握する狙いがあったとしても不可解な行動といえる。憲仁親王立太子直後の28日に頼盛は皇太后宮権大夫に任じられているが、この時の皇太后は藤原呈子だった。呈子は美福門院の養女だったので、頼盛は親近感を抱いていたと思われる。一方で憲仁の母・平滋子との交流はほとんどなく、疎遠な関係にあった。 清盛にとって一門の足並みを乱す頼盛の行動は問題だったが、九州に平氏の勢力を広げること自体は悪い話ではなかったので、多少の黙認はしていたものと考えられる。仁安2年(1167年)正月に六条天皇が院御所に行幸すると、頼盛は九州にいたにも関わらず正三位に叙せられている。
※この「公卿昇進と大宰府赴任」の解説は、「平頼盛」の解説の一部です。
「公卿昇進と大宰府赴任」を含む「平頼盛」の記事については、「平頼盛」の概要を参照ください。
- 公卿昇進と大宰府赴任のページへのリンク