公同の教会普遍の教会
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/12 06:01 UTC 版)
「教会 (キリスト教)」の記事における「公同の教会普遍の教会」の解説
「公」とは普遍的という意味である。 「公同の教会」および「使徒継承」も参照 「使徒継承」に関しては、正教会やカトリック教会のような伝統的な教派と宗教改革以降のプロテスタント教会とで解釈と用語が異なる。前者では、文字通りキリストの弟子である使徒の権威が現在の教会にも継承されているという意味で、特に叙階などの秘跡や聖伝が受け継がれていなければならないとする。正教会の場合、単に歴史的な継承関係の継続にとどまらず、現在他の教会から教会と認められていない集団には使徒継承を認めない。カトリック教会では、「16世紀の宗教改革から生まれたキリスト教共同体(プロテスタント)は叙階の秘跡による使徒的継承をもたず、それゆえ教会を教会たらしめる本質的な要素を欠いているため、これらの教会共同体を(カトリックの教えによれば)固有の意味で『教会』と呼ぶことはできない」としている。 一方、後者のプロテスタント教会では、使徒たちの信仰、特に聖書の信仰が受け継がれていることと解釈する。これは、当時の宗教改革者により、名ばかりの「使徒継承」を謳いながらその内実が変質・腐敗していた当時のカトリック教会より「聖書に記された使徒等と同じ信仰」に生きることこそ「真に使徒的」と主張されたことによる。「使徒的」教会の解釈を、「神からの遣わされた」人々と解釈する場合もある。元牧師でもある八巻正治は自著『聖書とハンディキャップ』の中で「例えば教会生活をとってみても、まことに残念なことに、神様に<霊とまこと>とをもって礼拝を献げるために教会へ来ることが主目的ではなく、それ以外(礼拝後の交わり等の)を目的として教会へ集う人も決して少なくありません。これでは本末転倒です。さらに礼拝式においても、きわめて形式化・形骸化したような、あるいはまた教条主義的・自己満足的なセレモニーが実に多く存在しております。かのルターの宗教改革(恵みのみ・信仰のみ・聖書のみ)は、まさしくこうしたところから生まれた筈なのですが、多くの教会の姿は今日もなお新たなルターが必要とされているかのようです。」と指摘している。 プロテスタントのうち福音派は使徒継承を認めず、使徒継承の用語も使わないが、エキュメニズムでは認められることがある。ただし、福音派が使徒の信仰の継承を否定しているわけではない。 プロテスタントは、ローマ教会(カトリック教会)の使徒継承の教理に対して「教会のしるし」を確認したが、ルター派(ルーテル教会)と改革派では同一な教会論を持っているわけではない[要出典]。
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