藤原斉信
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藤原 斉信(ふじわら の ただのぶ、康保4年〈967年〉 - 長元8年〈1035年〉)は、平安代中期の公卿・歌人。藤原北家、太政大臣・藤原為光の次男。官位は正二位・大納言。四納言の一人。
注釈
出典
- ^ a b 『古事談』第2,臣節「俊賢、蔵人頭に自薦のこと」
- ^ 『枕草子』78段
- ^ 『枕草子』156段, 157段
- ^ 『大鏡』巻3,太政大臣為光
- ^ 『十訓抄』第9
- ^ 後藤昭雄「一条朝詩壇と『本朝麗藻』」『平安朝漢文学論考』所収。今浜通隆「『本朝麗藻』全注釈(八)」『並木の里』第23号、1983年3月。
- ^ 『小右記』寛弘二年5月14日条
- ^ 『御堂関白記』長和2年正月16日条
- ^ 『小右記』治安元年10月14日条
- ^ 『小右記』治安元年10月28日条
- ^ 『小右記』治安元年11月23日,25日条
- ^ 『小右記』万寿2年8月27日条
- ^ 『小右記』万寿2年8月28日条
- ^ 『小右記』万寿2年8月29日条
- ^ 『小右記』万寿2年10月22日条
- ^ 『小右記』治安3年閏9月29日条
- ^ 『小右記』長元2年9月14日条
- ^ 『公卿補任』
- ^ 『勅撰作者部類』
- ^ a b c d e f 『近衛府補任』
藤原斉信
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/05/02 07:01 UTC 版)
藤原斉信は太政大臣藤原為光の子で道長の従兄弟にあたる。前述のように寛和2年の歌合では道長・公任とともに招かれたが、道長・公任より1つ年下であった斉信は最年少の召人であった。同2年10月から1年間道長とともに左近衛少将を務めている。蔵人頭時代に関白藤原道隆が重篤となり、息子である藤原伊周の内覧宣旨を巡る騒動が発生している。四納言のうち、もっとも道長と親しかったのは斉信であったと考えられ、道長が出家後の万寿元年(1024年)に病気療養のために有馬温泉に向かった際に斉信も同行している。更に道長の娘である彰子・威子の中宮大夫、外孫である敦成親王(後一条天皇)の春宮大夫に任じられ、寛仁4年(1020年)に四納言中唯一の大納言に昇進し、その翌年に藤原実資が右大臣に転じた後は唯一の正官の大納言であった。その後、斉信はあと一歩に迫った大臣の地位に就任することを願って度々祈祷を行い、彼と大臣の地位を争い先に就任した藤原実資は不快の念を『小右記』に記している。だが、若くして大臣となった藤原頼通・教通兄弟及び当時としては稀に見る長命を保った実資の3大臣を前に遂に斉信が大臣になることはなかった。
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藤原 斉信(ふじわら の ただのぶ)
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「暴れん坊少納言」の記事における「藤原 斉信(ふじわら の ただのぶ)」の解説
太政大臣・藤原為光の次男で正四位下・右近衛中将(うこんのちゅうじょう・内裏外周の警護を行う「右近衛府(うこのえのふ)」のNO.2)、のちに参議を兼ね「宰相中将(さいしょうのちゅうじょう)」と呼ばれる。則光の友人の一人。優男。
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