長徳の変
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長徳の変(ちょうとくのへん)とは、996年(長徳2年)正月16日の夜に起こった藤原伊周・隆家兄弟による花山法皇襲撃事件[1]。花山院闘乱事件(かざんいんとうらんじけん)ともいう。
この事件は、これまでの藤原氏による数ある陰謀事件とは異なり、明らかに伊周・隆家の軽率な行動によって中関白家が失脚する原因になった事件である[2]。
経緯
関白藤原道隆の嫡男である藤原伊周は、故太政大臣藤原為光の娘三の君に通っていた。996年(長徳2年)頃、花山法皇が三の君と同じ屋敷に住む四の君に通いだした(三の君と四の君は、かつて法皇が天皇在位中に寵愛した女御藤原忯子の妹にあたる)。ところが、伊周はそれを自分の相手の三の君に通っているのだと誤解し、弟の隆家に相談する。隆家は996年2月7日(長徳2年1月16日)、『大鏡』によると、従者の武士を連れて法皇の一行を襲い、法皇の衣の袖を弓で射抜いた。更に『三条西家重書古文書』が引く『野略抄』(『小右記』の逸文)では、法皇の従者の童子二人を殺害しその首を持ち去ったと記されている。藤原実資が記す事件の事柄は事の重要性を物語っている[3]。
同年2月5日に伊周の家司の邸宅が捜索され、2月11日の陣定では、一条天皇から「伊周・隆家の罪科を決定せよ」と勅が道長に伝えられ、明法博士に罪名の勘申をさせる運びとなり、3月4日には中宮定子が里第に退出したが供奉するものは少なく、里第でも饗(もてな)されなかった[3]。
備考
長徳の変より150年後に発生した保元の乱を描いた『保元物語』(巻之二「忠正・家弘等誅せらるる事」)には、「死罪の復活」が論じられた際に、嵯峨天皇によって死罪が停止された後、法家が伊周の死罪を検申したにもかかわらず罪一等を減ぜられて流罪となったことで死罪は久しく絶えたと記されており、当時(平安時代末期)において平安時代を通じて長く続いた「死刑の停止」が薬子の変と長徳の変の2段階を経て確立されたと認識されていた、とする指摘もある[4]。
脚注
注釈
出典
参考文献
固有名詞の分類
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