弾正台
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弾正台(だんじょうだい、彈正臺)は、律令制下の太政官制に基づき設置された、監察・治安維持などを主要な業務とする官庁の一つで、古代と近代(明治時代初期)に存在した。
- ^ a b c d 和田英松『新訂 官職要解』講談社〈講談社学術文庫〉、1983年、p.128。
- ^ 『歴名土代』では確認できないが、足利義輝よりの書状では弾正少弼名義となっており、公認されていたのははっきりしている。なお、謙信が養子縁組した関東管領山内上杉家では関東管領を朝廷の官職と同格とみなす立場から室町時代後期以降は関東管領を自らの官職と称して朝廷からの官職を受けなくなったため、謙信はその先例に倣って養子縁組前の"長尾景虎"時代の弾正少弼を最後に以後の官職昇進を受けなかったとする説がある(木下聡「山内上杉氏における官途と関東管領職の問題」『日本歴史』第685号、吉川弘文館、2005年6月、18-31頁、CRID 1520572359270228608、ISSN 03869164。)。
- ^ 笠原英彦「弾正台と行政監察」『法學研究 : 法律・政治・社会』第72巻第3号、慶應義塾大学法学研究会、1999年3月、1-29頁、CRID 1050564288907301760、ISSN 0389-0538。およびコトバンク「弾正台」(外部リンク参照)。
- ^ 弾正台ヲ置ク国立公文書館
- ^ 少弼(読み)しょうひつコトバンク
- ^ 弾正の忠(読み)だんじょうのじょうコトバンク
- ^ 弾正の疏(読み)だんじょうのさかん
- ^ 牧原憲夫『明治七年の大論争 :建白書から見た近代国家と民衆』 日本経済評論社、1990年(ISBN 4818804339)、p.212。当時大学大丞であった加藤弘之(後の東京大学綜理)も天長節儀式に欠席したことを弾正台に指弾され、謹慎処分を受けている。
- ^ 笠原、前掲、pp.9-11。なお著者はこの事件を、弾正台の職務があまりに広範でその領域が明確でなかったため、他の官庁(ここでは京都府)と衝突・齟齬を起こしたものと見ており、弾正台(ひいては海江田)のいわゆる「守旧的」性格については否定的である。
- ^ 牧原、前掲、p.213。その後、古賀は弾正台廃止後の明治4年12月(1872年1月)に愛宕通旭らとともに新政府転覆のための挙兵を企てた(二卿事件)ことをもって逮捕され梟首に処せられている。
弾正台
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弾正台(律令制)
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古代の弾正台は、律令体制における監察・警察機構である。唐名は、御史台(ぎょしだい)、憲台(けんだい)、霜台(そうたい)、粛正台(しゅくせいだい)、正台(せいだい)など。
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弾正台(明治時代)
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近代官庁としての弾正台は、明治2年5月22日(1869年7月1日)、太政官制に基づき、刑法官監察司の職務を引き継いで設置された明治新政府の省庁である。明治4年8月24日(1871年7月9日)、司法省新設により廃止された。
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