清洲三奉行
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清洲三奉行(きよすさんぶぎょう、清須三奉行とも表記)は、尾張国守護代の織田大和守家(清洲織田氏)のもとで「三奉行」とされた、織田氏庶流の因幡守家・藤左衛門尉家・弾正忠家を後世に総称するようになった呼称である。太田牛一の『信長公記』には、大和守家のもとに「三奉行」があったと記されるが、「清洲三奉行」は同時代に確認できる組織名ではない[1]。三家が大和守家の中枢政務を恒常的に分掌した常設機関であったかについても、研究上疑問が示されている[2]。
発生
尾張守護代である織田氏は、もとは尾張守護でもある管領の斯波武衛家の家臣であったが、応仁の乱における斯波氏の内紛に伴う混乱の中で分裂し、それぞれの家が次第に自立性を強めていった。
戦国時代において、清洲三奉行が仕えたとされる清洲織田氏(大和守家)は清洲城を本拠とし、守護斯波氏を奉じて尾張下四郡を支配した。もう一方の岩倉織田氏(伊勢守家)は岩倉城を本拠として尾張上四郡を治めたとされる。
清洲三奉行の成立時期は明らかでない。織田達勝が守護代であった永正13年(1516年)には、のちに三奉行家とされた三家の当主に符合する信貞・良頼・広延の連署奉書が伝わっており、従来は三奉行体制の存在を示す史料の一つとされてきた[3]。
当時の尾張では、守護の斯波義達と先代守護代の織田達定が対立し、達定が自刃に追い込まれていた。鳥居和之は、このような大和守家の危機を克服し、達勝のもとで新たな支配体制を構築するために「三奉行体制」が成立したと論じている[4]。一方、永正13年の連署奉書を、恒常的な三奉行体制の存在を示す史料とみることには異論がある。
三奉行のほか、清洲城には小守護代の坂井大膳がいた。
呼称の成立
『信長公記』首巻は、「大和守内に三奉行これあり。織田因幡守・織田藤左衛門・織田弾正忠、此三人諸沙汰奉行人なり」と記す。同書は慶長3年(1598年)頃に成立したとされるが、ここでも「清洲三奉行」という固有の組織名は用いられていない[5]。
この記述は、小瀬甫庵の『信長記』の刊行を通じて広まり、新井白石の『読史余論』、頼山陽の『日本外史』、近代の田中義成『織田時代史』にも引用された。「清洲三奉行」という呼称は、信長家の出自と台頭を説明する名称として、こうした受容の過程で定着したとみられる[1]。
近世の『織田軍記』は、天文初年に織田大和入道常祐が死去し、幼少の彦五郎が大和守家を継いだため、因幡守・筑前守・弾正信秀を後見の「三奉行」に定めたとする[6]。しかし、常祐を文安5年(1448年)にみえる織田久長とする比定には年代上の矛盾があり、天文初年の三家も協調関係にはなかったため、この記述を三奉行成立の同時代的根拠とすることはできない[7]。
永正13年の連署奉書
永正13年(1516年)12月1日、信貞・良頼・広延は、妙興寺領と同寺末寺である温泉寺・称名寺などの知行を「代々判形」に任せて保障する連署奉書を発給した[3]。
原本は三人の実名と花押で署判され、名字・官途を記した貼紙と「清洲三奉行」の貼紙が付されている。別に伝わる写しでは名字・官途が本文中に書き込まれ、「筑前守」が「築前守」と記されている。この写しは別に発給された二通目の奉書ではなく、原本の内容に名字・官途を補って作成された写しとみられる[3][7]。
妙興寺文書は近世に障子・屏風の下張りなどから取り出され、17世紀後半に南梁密緘によって整理された。元禄5年(1692年)には修補・表装され、その後も明治・昭和期に整理が行われている。このため、「清洲三奉行」の貼紙を永正13年の発給時に遡らせることはできない[8][9]。
同日には守護代織田達勝も妙興寺へ判物を発給した。しかし、三人の連署奉書には達勝の命令を奉じたとの文言がなく、6日後に達勝判物の調進を報告した林定次の書状も連署奉書に触れていない。両文書は異なる発給過程を経たと考えられている[8]。
大和守家の取次と林氏
妙興寺と大和守家との間では、林氏が文明年間から天文年間にかけて判物の調進や訴訟の取次を継続していた。
林定次は文明年間に織田敏定の書下を取り次ぎ、永正13年には達勝判物を調進した。大永6年(1526年)にも林勝次が達勝の判形を取り次ぎ、天文2年(1533年)には妙興寺が林氏を介して、信秀家臣による寺領侵害を達勝へ訴えている[10]。
このような林氏の恒常的な取次活動に対し、「代々判形」を根拠として三家が共同で保証した永正13年の連署奉書は、異例かつ一時的な性格を持つ文書であったと位置付けられている[11]。
戦国時代初期の尾張の支配体制
- 『信長公記』冒頭の記述に基づく伝統的な理解
守護 斯波氏 ┃ ┏━━━┻━━┓ 守護代 清洲織田氏 岩倉織田氏 ┃ 配下 清洲三奉行
ただし、三家を大和守家の下位に恒常的に編成された奉行機構とみる理解については、研究上再検討が進められている[2]。
尾張国守護代家
清洲織田氏(大和守家)と岩倉織田氏(伊勢守家)に分かれたのは、織田敏定と織田敏広の代の和約に基づくとされる。
『信長公記』によれば、清洲織田氏が尾張下四郡を治め、岩倉織田氏が尾張上四郡を治めたとされる。当初は、在京守護代の系譜を引く岩倉織田氏の方が優勢であったとされる。
- 尾張守護代家
上記の系譜には後世に編纂された系図による復元が含まれ、世代関係が確定していない人物もいる。
清洲三奉行家
- 因幡守家:織田広長?―織田広貞?―織田広延―…―織田達広?―織田広信(信友?)
- 藤左衛門尉家:織田良縁?・織田良頼?―…―織田常寛―織田寛故―織田寛維―織田信張―織田信直―織田信氏・織田忠辰
- 弾正忠家:織田良信?―織田信定―織田信秀―織田信長―(織田信忠―織田秀信)
文明14年(1482年)、日蓮宗の身延山久遠寺と六条本圀寺の本末関係をめぐる法嫡相論が清須で裁かれた。
7月13日付証文には蜂須賀豊前守俊家・那古野丹後守敏信・織田弾正忠良信・織田又七郎良縁、翌14日付証文には山本左京進広顕・織田次左衛門尉広貞・織田左京亮広長が署判した[12]。
史料は彼らを「国中ノ奉行」と記すが、他に恒常的な奉行活動を示す史料は確認されておらず、この相論のために臨時に集められた可能性もある[13]。
13日付の署判者には斯波義敏・義良の偏諱とみられる「敏」「良」、14日付の署判者には織田伊勢守家の通字である「広」がみられ、両者はそれぞれ清須方と岩倉方に属していたと推定されている[12]。
因幡守家
因幡守家は、系譜は明らかでないものの、早い段階で分かれた織田氏の一族とされる。初めて名が明らかになる人物として、清洲宗論の際に奉行人として名を連ねた織田広長・織田広貞らが挙げられる。
広貞を広長の子、永正13年の連署奉書に署判した広延も広長の子とする説があるが、世代関係には明らかでない点がある。
九郎左衛門尉良康は、斯波義寛が越前回復を祈願して祖先の塔所を建立しようとした際、その奉行に任じられた。良康は身分が高くなかったにもかかわらず、義寛から名を与えられ、特別な奉行を命じられたと記している。これは、義寛が庶流織田氏を直属の被官として登用した事例とされる[14]。
山﨑布美は、良康から永正13年の署判者広延、さらに達広・信友へ続く家系を想定しているが、これは活動年代や通称などによる推定であり、直接の系譜史料によって確認されたものではない[15]。
最後の清洲織田氏当主である織田信友(彦五郎)については、達勝の養子で別名を広信といい、因幡守家の出身であったとする説もある。
藤左衛門尉家
藤左衛門尉家では、永正13年の連署奉書に署判した織田良頼が代表的な人物として知られる。
藤左衛門尉良縁は、斯波義寛が義良を称していた時期に「良」の偏諱を受けたとみられる。義寛が尾張に定住する以前から名乗りが確認されることから、応仁・文明の乱や越前回復戦に伴う軍事動員を通じて、斯波氏と直接関係を結んだ可能性が指摘されている[12]。
『蔭凉軒日録』では、良縁は蔭凉軒主と独自に書状・贈答を交わしている。このため、大和守家とは別個の家系と所領基盤を形成し、一族内でも有力な地位にあったことがうかがえる[16]。
明応4年(1495年)の敏定死後、良縁は船田合戦に伴う混乱の中で、幕府御料所として伊勢氏が支配していた小田井を押領した。小田井はその後も藤左衛門尉家の本拠となり、同家は大和守家との関係を保ちながら独自の領主基盤を形成した[17]。
山﨑は良頼を良縁の子とみている[18]。良頼は弾正忠家の信定の岳父であり、良信と同世代の人物であったと推測されている。藤左衛門尉家の系図にみえる織田常寛(織田久長の子か)との関係は明らかでなく、常寛を良頼と同一人物とする説もある。
藤左衛門尉家は、信定に嫁いだ良頼の娘が没した後、一時は達勝とともに弾正忠家と敵対したとされる。その後は弾正忠家に従うようになり、小豆坂の戦いや加納口の戦いに参加したとされる。
後代には小田井城を居城としたため「小田井織田氏」とも呼ばれた。城下の東雲寺を菩提寺としたとされる。名古屋市によれば、寺伝では明応元年(1492年)の創建で、開基は織田丹波守常寛とされ、境内には小田井城主常寛の墓と津田権之丞信之夫妻の墓がある[19]。東雲寺は後代の津田氏の菩提寺ともされている[要出典] 。
弾正忠家
弾正忠家のもとの系譜は明らかでない。『満済准后日記』によれば、室町時代の守護代である織田伊勢守入道常松の被官に「織田弾正」という人物がいた。また、長禄年間の斯波家家老にも「織田弾正忠」がみえるとされ(『朝倉家録』)、その子孫をのちの弾正忠家に結び付ける説がある。
同時代史料で実名が確認できる早い人物は織田良信である。文明14年の法嫡相論に「織田弾正忠良信」として署判し、『蔭凉軒日録』にみえる斯波義寛の伴衆「織田備後守」にも比定されている[20][21]。
『信長公記』にみえる西巖は良信にあたると考えられている。妙興寺文書には材巖―月巖の系譜がみえ、「材」と「西」がともに「サイ」と読めることから、材巖と西巖は同一人物とみられる。佛音寺に伝わる「前備州太守材巖徳勝居士」の位牌も、良信のものに比定されている[20]。
一方、良信を法名「清巖」の岩倉城主織田敏信の子、または同一人物とする説もあった。山﨑は、良信を材巖・西巖に比定し、敏信については龍潭寺に「清巖常世大居士」の位牌が伝わることから、両者の同一人物説は史料の混同によって生じた可能性を指摘している[20]。
年未詳の妙興寺一衆申状草案は、材巖・月巖・当時の弾正忠家当主の三代が、花井・浅宮・屋外・鈴置・吉松・木村などの寺領を押領したと訴える。材巖は良信、月巖は信貞、当時の当主は信秀に比定されており、寺領への進出が三代にわたって継続したことになる[22]。
信貞は永正13年の寺領保証に加わった一方、弾正忠家は寺領への進出を続けた。連署奉書が実効的な遵行機構を伴わなかったことと、三家が大和守家の統制から一定程度自立して在地支配を進めていたことが示される[23]。
信定の代には勝幡城を中心に津島や熱田を勢力下に置くなど力を付け、これ以降、弾正忠家は「勝幡織田氏」とも称されるようになった。
永正13年の連署奉書は信定の文書の初見とされるが、その後には信定が単独で発給した文書も存在する。
その子の信秀の代には軍事力を大きく伸ばし、主家に対抗するようになった。軍事面では主家をしのぐ勢力を有した一方、統治面では守護斯波氏や守護代大和守家の権威を利用する必要があった[24]。
信秀の死後、弾正忠家の一族内部を含む織田氏内部の抗争が再発した。信秀の子である信長は、弾正忠家内部の競争者を排除し、守護代清洲織田氏の織田信友を討った。さらに岩倉織田氏の織田信安・信賢らを追放し、その過程で守護の斯波義銀も尾張から追放した。反抗する織田一族を順次排除し、尾張国の統一を成し遂げた。
研究史
山﨑布美が整理した研究史によれば、杉村豊は、弾正忠家をはじめとする庶流家の在地領主化を信長父祖の権力基盤の形成要因とし、「清洲三奉行」をその体現として位置付けた[24]。
鳥居和之は、大和守敏定の晩年から明応末年頃にかけて生じた大和守家の危機を克服するため、「三奉行体制」が成立したと論じた[4]。
これに対し、下村信博は、三家が織田一族の有力者として守護代大和守達勝を支えたことを認めつつ、応仁の乱後に所領を拡大し、所領支配の拠点に居城を構えた「自立化しつつある領主」としての性格を重視した[5]。
下村および柴裕之は、永正13年の連署奉書を通常の奉行人奉書と同様に理解することは難しく、三家を大和守家の中枢政務を司る固定的な奉行機構よりも、大和守家を支えた有力庶家として捉えている[5]。
矢田俊文は、戦国期の守護家・守護代家奉書には、当主の命令を単純に奉ずる奉行人に限らず、自らの支配領域の要求に応じて判物を発給する領主が署判者となる例があることを指摘した。矢田は三家の連署奉書を「守護代家年寄奉書」と呼び、文書には奉戴する当主の意思以上に、署判者自身の領主的意思が反映され得るとした[5]。
鈴木正貴は、15世紀末から16世紀初頭にあたる清須城下町第I期の武家屋敷について、それぞれが独自の堀を備えた独立性の強い区画であり、居館に居住した領主の求心力は必ずしも強くなかったと指摘している。山﨑はこの発掘成果も踏まえ、清須に集住した庶流家が守護代へ強く従属する一体的組織を構成していたかには検討の余地があるとしている[24]。
山﨑は、三家が大和守家の奉行として恒常的に活動したことを示す史料はなく、永正13年の連署奉書は、大和守家の相次ぐ代替わりの中で台頭した三家が、一時的に妙興寺領を保証したものとみている[25]。
系図
因幡守家
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広貞 |
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広延 |
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達広 |
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広信 (信友?) |
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広延 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||
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広貞を広長の子、広延を広長または広貞の近親とする説があるが、因幡守家の初期系譜には明らかでない点が多い[15]。
藤左衛門尉家
| 久長 |
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良縁? | |||||||||||||||||||
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良頼? | |||||||||||||||||||
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| 寛故 |
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寛貞 | |||||||||||||||||||
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| 寛維 |
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信張 | |||||||||||||||||||
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| 元綱 |
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信直 | |||||||||||||||||||
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信氏 |
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忠辰 | |||||||||||||||
- 常寛は良頼と同一人物ともされる。また、良頼の父は織田良縁ともされ、藤左衛門尉家の初期系譜は判然としない。
- 常寛以降、小田井城を居城としたことから「小田井織田氏」とも呼ばれる。
弾正忠家
織田氏の系譜を参照。
脚注
- 1 2 山﨑 2018, pp. 55–56.
- 1 2 山﨑 2018, pp. 54–59.
- 1 2 3 山﨑 2018, pp. 56–57.
- 1 2 山﨑 2018, pp. 54–55.
- 1 2 3 4 山﨑 2018, p. 55.
- ↑ 山﨑 2018, p. 56.
- 1 2 山﨑 2018, p. 70.
- 1 2 山﨑 2018, pp. 57–58.
- ↑ 山﨑 2018, p. 71.
- ↑ 山﨑 2018, pp. 58–59.
- ↑ 山﨑 2018, p. 59.
- 1 2 3 山﨑 2018, pp. 59–60.
- ↑ 山﨑 2018, p. 72.
- ↑ 山﨑 2018, pp. 46–48.
- 1 2 山﨑 2018, pp. 63–64.
- ↑ 山﨑 2018, p. 60.
- ↑ 山﨑 2018, pp. 61–63.
- ↑ 山﨑 2018, p. 62.
- ↑ “庄内緑地周辺散策コース”. 名古屋市公式ウェブサイト. 名古屋市. 2026年8月5日閲覧。
- 1 2 3 山﨑 2018, pp. 33–35.
- ↑ 山﨑 2018, pp. 39–43.
- ↑ 山﨑 2018, pp. 64–67.
- ↑ 山﨑 2018, pp. 66–68.
- 1 2 3 山﨑 2018, p. 54.
- ↑ 山﨑 2018, pp. 56–68.
参考文献
- 山﨑布美『織田権力の形成と終焉』(博士(歴史学)論文)國學院大學、2018年。
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