織田寛定とは? わかりやすく解説

織田寛定

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/07/04 06:01 UTC 版)

ナビゲーションに移動 検索に移動
 
織田寛定
時代 室町時代後期 - 戦国時代
生誕 不明
死没 明応4年9月7日1495年9月25日[1]
別名 通称:五郎
官位 近江守丹波守
幕府 室町幕府 尾張下四郡守護代
主君 斯波氏
氏族 清州織田氏(大和守家)
父母 父:織田敏定[2]
兄弟 寛定寛村敏信?、敏宗良信?、
秀敏信定?、信安?、飯尾定宗?、
大雲永瑞?
正室:石丸利光
テンプレートを表示

織田 寛定(おだ とおさだ/ひろさだ)は、室町時代後期から戦国時代にかけての武将尾張国下四郡の守護代。通称は五郎。官位近江守丹波守。尾張日置城主。

略歴

尾張の海東郡中島郡愛知郡の三郡(後に尾張下四郡)を支配した清洲城の守護代「織田大和守家」の織田敏定[3](『信長公記』では織田寛広)の嫡男として誕生。主君の尾張守護斯波義寛の一字「寛」の偏諱を受け、寛定と名乗ったと推定される。

明応3年(1494年)、美濃国守護・土岐氏の家督争い(船田合戦)が起こると、石丸利光の娘を正室に迎えたため、土岐元頼・石丸利光方に味方して、土岐政房斎藤妙純方の岩倉の上四郡守護代で織田伊勢守家当主の織田寛広と戦うが、明応4年(1495年)7月、父が陣中に死去する。構わずに寛定は布陣を継続したが、一度、尾張へと下国して寛定は家督を継いだ。しかし、同年9月には美濃で討ち死にした。家督は一説に弟とされる寛村が継いだ。

脚注

  1. ^ 『尾張群書系図部集』上 217頁
  2. ^ 『清洲町史』の織田氏系図
  3. ^ 『清洲町史』の織田氏系図

出典

  • 『尾張群書系図部集』
  • 『清洲町史』
  • 信長公記




固有名詞の分類


英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「織田寛定」の関連用語

織田寛定のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



織田寛定のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアの織田寛定 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS